今月へ

2008/2月分


[3時間の変化/詩誌『エウメニデス』31号]
午後3時頃

午後6時頃

2月14日
 きのう風が強かったから空気が澄んでいるのだろう。昼の上弦の月が
とてもくっきり見えた。昼も月が出ていることを、あの丸い月のことを
忘れてしまっているけれど、すっかり心から無くなってはいないから
青空にふいに見つけたときには、なにか良いことがあったように気持ち
が弾む。
 3時間後に濃い夕焼けが訪れて、その燃えるような茜色にみとれて、
またもすっかり月のことを忘れるけれど、この地上の時間と別のところ
にきっと月はあり続けている。見えない月は茜色に染まっているのだろうか。


小島きみ子さんの詩誌『エウメニデス』31号が送られてきました。
今回は私の詩『さしのべる』を写真とともに載せていただいてます。
もしも読んで見たい方がいらしたら、ご連絡いただければ、お送りします。





[身近な猛禽]

2月11日
 これは鷹でしょうか。身近にこんな猛禽がいたりするのですね。
私はカメラを持つようになってからずいぶんと多く空を見上げる
ようになっているようです。
ここのところ歴程の春の朗読会のためのチラシを作成していました。
テーマが「天」なので、過去に撮った空の写真を100枚位ピックアップ
して9枚を使ってデザインしました。春の空をイメージしたり、文字
を載せることを考えたりして組み写真をつくるのもとてもいい経験に
なりました。フォトショップのレイヤーの概念も解るようになって
きました。これから七月堂さんに印刷をお願いする予定なのですが
レイヤーのことが解ったので、微調整などもできる状態で入稿する
ことが出来ました。まだまだいろんな機能があるフォトショップは
奥が深いです。



[記憶の梅]

2月7日
 渋谷のユーロスペースでソクーロフの映画をみました。
レーニンの最晩年、死の数ヶ月前を描いた『牡牛座』は、
映像を見ることで、現実か、物語あるいは想像の内部(非現実)
かわからないような光景に見ているものを連れだしてしまう、体験させてしまう
映画でした。すこしも勇士の面影がないレーニンは右半身が麻痺していて、
まだらに痴呆の症状があって、党によって静かな森の邸宅に隠されてしまっている。
老妻とだけは特別な結びつきがあるようでも、医師や看護者は仕事で看ては
いるけれどふとした仕草から老耄のレーニンを軽蔑しているのがすけてみえ
てしまうのです。ソクーロフは老いた一人の人間としてレーニンを撮っていて
レーニンの表情にもこちらかあちらか解らないようなものが現れては消えて
ゆくのです。見舞いにくるスターリンもレーニンの様子に苛立ち早々に帰って
しまう。数人がかりで薬湯を浴びさせてもらっている裸のレーニン。
怒りや苛立ちを爆発させて杖を振り回すレーニン。ソクーロフは勇士とは一時期の
はかない呼び名であって、どうにもならない身体だけが残るという現実
を突きつける。しかもその身体ですらこちらかあちらか解らない表情の住処として。
身体が自由への入り口だとしたら、老妻と白い花の咲いている草原へ散歩して
入っていって、ゆっくり寝ころんで過ごす場面だけがそうだった。笑いがこぼれて
いるひとときの草原。そこだけのために、『牡牛座』はあるのだろうか、と
こちらかあちらかの境そのものを映像に掬い取ろうとしているようでもあった
映画を思い起こしてみています。
 

川上未映子の『先端で、さすわ さされるはそらええわ』。
つきつめて行く問いがくねくねと身体や思考をとおってゆく
ようすがとても面白いです。くねくねとどこまでも、言葉という
刃で切り裂きながら進む軌跡が、こちらの読む時間と重なって
くるのです。大阪弁がまた絶妙で脱力感を含んでいるし、
読みずらくて立ち止まるところも、術中にはいってしまって
いるのかもしれないです。





[高橋明洋の違和感]

2月5日
 これは先日ニコンサロンで展示されていた高橋明洋さんの写真。
撮影の許可を受けています。高橋さんは、微妙な違和感を撮って
いるのだけれど、全て一枚 の写真は13枚位を合わせて一枚にして
いるのですよね。ぜんぜん解らないけれど、解らないなかに感覚は
受け止めていて、どこか平面からぐぅーとせり出してくるものに
押される体感が残ってきます。ここには増幅された高橋さんの
違和感が違和感の作品化としてあるように思えます。はい。すべて
見たことをいいあらわすことができない映像を言葉で受け止めて
いる今なのです。その言葉化のなかで、モノが映っているけれど
やっぱりモノじゃなくて、作品は徹底的にメカとモノとで作られて
いるのにいわくいいがたい違和感をすくい上げることで一貫してい
るので、違和感が作品といってもいいのだと思えてきました。ようは
撮る対象は何でもよくて思い入れはないわけです。ないと高橋さん
が言っていたニュアンスがはっきり伝わってくる作品です。その
徹底ということが高橋さんの写真行為なのだろうと、私は言葉で
たどってゆくのですが、その前に見ていたときは、言葉はなくて
なにがやってきていたのだろうと思います。言葉とかイメージ(映像)
の狭間にいろいろな今生きているこの世界のことがあって、
「そこ」は、恐いけれど豊かな狭間で、言葉のひとは言葉で窓を開け
のぞく「そこ」がたいせつなのだと思いました。






[前橋駅のバス/『もーあしび』12号の感想]

2月4日
 めったに雪が降ることのない前橋ですが、昨日は雪でした。
湿気を含んだ冬の大気が山脈に当たって新潟へ雪をふらせて、
湿気だけ抜けた冷たーい風ばかりが、山脈を越えた勢いで
前橋あたりの平地へ吹き下ろしてくるのだからたまりません。
風の強い冬は皮膚が冷えて痛くなりました。
 駅前にあるビルの5階のレストランで窓際の席に掛けていたら
雪のひとひらが舞っているなか、カラフルなバスがロータリーに
入ってきました。その小型バスにはイルカが跳ねているけれど、
どこへ行くバスなのかわかりません。楽しそうなバスです。

 『もーあしび』12号について小島きみ子さんが
ブログ・ポイエーシスに感想を書いてくださいました。




[足元に視線を感じて/『ジャーマン・雨』]

2月1日
 渋谷の109の二階にぴあチケットコーナーがあるので
前売り券を買いにいったのです。チケットを買って階段を
おりてくると、なぜか私の足元に視線を感じて、ふとみると
大きな目が私をにらみあげているではありませんか。ぎょっ
として立ち止まって、いったいこれは何、とよくよくみた
のですけれど、よくよくみえない。いったいどうなってるの
透けているの? 何なの? 透明な平面に閉じこめられている
目は逆さまに、109から降りてくる人々の足元をにらみ
あげたまま、どれだけの人をぎょっとさせるでしょう。
これはなんの宣伝なの? なんの言葉もないから宙ぶらりん
のまま、逆さの目が落ち着かないのに輪をかけて自分のなかで
落ち着きません。 言葉が何もないということはこれほど
収まりの良くないものなのかと、収まりなく逆さににらむ目
に落ち着きなく、階段を下りましたが、このことはある種の
体験になった感があります。言葉なく街に置かれたイメージ
には落ち着きなく人の意識の中にはいって彷徨うような存在
となるのかもしれない。

 これとは別にユーロスペースで『ジャーマン・雨』をみました。
インディーズ映画ですが、怪力のある不条理な映画でした。
ゴリラ顔で自己中心的な女の子が縦笛で作曲している。その
歌詞は町のみんなのトラウマ。かっこいいドイツ人がいるという
ことだけで町に戻ってきたよし子は歌手をめざしているのだけれど
実際は、祖父が亡くなり父が入院して住む人のいなくなった家で
自分に従う小学生3人に縦笛を教えて好き勝手をやっているだけ。
自分は何かしなくちゃいけない、何か大きなことを残さなくては
という激しい焦燥があるけれど、まともなことはできないし、しない
から、いろいろなところで爆発してしまう。地団駄を踏む。
でも、うまい歌ではなかったけれど、かっこいいドイツ人から
聞き出したトラウマをもとに作った歌詞だけは、すごくよかった。
とても変わった映画で、下品で偏屈だけれど純粋なよし子の凄みが
見終わってもずっと残り、突き抜けていてよかったです。