今月へ

2008年12月

[通り過ぎるとき]

12月29日
 通り過ぎるとき、青と赤とグリーンと白と茶色の光たちと、遮られた光の黒が
流れる。

 もうすぐ今年も終わりますね。
 皆さんはどんな一年でしたでしょうか。
 
 カビハイターの鼻をつく臭いのなかでごしごしお風呂場を磨きながら
 磨かなくてはならないものが、もっと他にある、と反省している年の瀬です。




[世界の指先12.27]


夢の記憶は
闘う気持ちになれない困惑から入ってきて
まだはっきりとは目覚めきれないわたしを
悲しくさせた

100匹の犬と100匹の猫と
わたしは闘わなくてはならない
と何かを手わたれようとして
手に力がはいらずに
何もうけとらなかった

わたしは携帯電話で熊に電話をする
もしもし・・犬と闘うのも猫と闘うのもいやなのだけど
熊は 闘わなくても大丈夫だよ
話し合えばわかり合えるから
と 
ゆったりとした声で教えてくれる
深い穴のなかからのその声が
わたしを落ち着かせる






[世界の指先12.16]

12月26日
 
 それが
 胸に入った言葉が
 乗リ越エナクテハナラナイ
 という意味だとしても
 しずかに体のなかで輝くときには、
 明日へ顔をあげた花の真ん中で 
 最後の雫のように輝いているだろう
  


[輪になって咲く]

12月18日
 寒い空気の中、ミニチュアローズがわになって咲いている。このままでフラワーアレンジメントに
なっている。花びらが冬の乾燥した冷たい空気でちりっとしているところも、生えているのだ、と
いう清々しさがある。


 冬の寒さにガスストーブを使っていて、夫がどうも頭痛がするのでおかしいおかしいと言っていたのです
けれど、先日「わかった、ストーブの不完全燃焼だ」とストーブの不調を見つけたのです。そのこと自体は
怖いことだったけれど、「ストーブを新しくしなくては」と言っていて、私はコジマ電器あたりに買いに
ゆくものと思っていたら、「ガスストーブ、新しいのがある」と言うのです。あるって? 
そう、ありました。「こんなこともあろうかと、もう一台買っておいた」というのです。
どこからか新品のガスストーブが現れました。彼は機械が大好きということはよく知っていたけれど、
そしてつい余分に買ってしまうということも知っていたけれど、まさかここまでとは思いもよりません
でした。



 このところ、歴程春の朗読フェスティバルのDMの作りで、組写真のための写真を選び、デザインを考え
ていました。そして七月堂の内山さんとdpiの値を幾つにするか、psdのレイヤーを統合するか統合せずに
大容量のものをCDに落として送るか相談し、統合してメールするのではなく統合せずにCDで送ることに
決めました。きょう、デザインしたDMのpsdや元写真のJPGをふくめデータをCDに落とし、郵送の準備を終えました。
写真は同じサイズにするため、雛形をつくり、そこへそれぞれコピーペイストして、縦横比が変化しない
ように拡大縮小をして一枚一枚しあげ、それ等を並べて組むDM大のpsdと同じdpiの値にしたのでした。



[コーヒーの中の天窓]

12月12日
茶色い丸い水面がみているのは天窓。
カップの水面は、いつも、ステンドグラス風の天窓と向き合っているのだった。

詩誌エウメニデスの次号の表紙の写真を頼まれ、きょう送る。

もーあしび次号の詩と写真の原稿を送った。

詩のテラス更新しました。



12月2日
 カレンダーも最後の一枚になりましたね。
30日には鈴木志郎康さんの萩原朔太郎賞のお祝いの会に参加させていただき
ました。東急BEの講座に通っていた頃からの詩の仲間が集まり、10年ぶりに
会えた人もいて、楽しいひとときを過ごせました。ユーロスペースのビルの1階に
あるカフェ「プロローグ」には大きなスクリーンがあり、志郎康さんの
映画「時には眼を止めて」を上映していただきました。
「形が花の言葉なのかも知れません」というナレーションが耳に残っています。
時とともに、枯れて形が崩れてゆく、それは言葉を失ってゆくことでもある・・。
そこにも美しさを見いだしている、というものでした。
 

写真は永沼敦子さんが新宿のニコンサロンで開いた写真展『虹の上の森』の一枚。
ちゃんと了解をもらって撮ったものです。葉の穴を覗いている目。その瞳に葉の穴
が映って、穴はまるで瞳のようです。そう。瞳は光を取り入れる穴なのでした。


きょうは、北溟社の「詩歌句年鑑'09」へ掲載する詩を選びました。
600字以内なので短い詩を探していて、まえに
小島きみ子さんの詩誌『エウメニデス』に書いた
詩「さしのべる(@さしのべる Aまいおちる)」
の前半「さしのべる」がちょうどよい長さなのでそれにしました。