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2008.8月分

[きょうの空/歴程夏のセミナーのひとコマ]
8月31日  きょうで8月も終わりです。おそろしく暑かった日々がずっと続いて、 なんとか乗り越えたら、今度は雨雨雨。老母二人も食欲が落ち痩せたよう な気がします。でも二人とも寝込むことはなかったのでまずまずでしょう。 お二人とも、これからもどうぞ寝込まないでくださいね。祈願です。  歴程夏のセミナーに参加しました。 いわきの草野心平記念文学館でのひとコマです。 講演する川口晴美さん。 私は右端に見えるスクリーンで上映しました。 歓談する渡辺みえこさんと長谷川龍生さん。 詩集を売る関富士子さん荒川純子さん川口さん。 休憩時間の小島きみ子さん私、近藤さん渡辺めぐみさん。 私は写真の中に詩のまなざしがあることや、デジタル写真を 選び形としてゆく過程にある手探りや発見などが詩の言葉を探してゆく ことと似ていているということを少し話しました。 それから『3月の呼吸』を上映しました。 「もーあしび朗読会」のチラシもみなさんに配らせていただきました。 今回は暑さのため体調を崩して来られない方や、大雨の影響で新幹線が 名古屋で止まって、来られない方々も出て残念でした。そんななか長野の 佐久から小島きみ子さんが来られて数年ぶりで会えて、お話しできたのでした! [青い蝶/「警告の森」] 8月27日  蝶を見ると、引き寄せられます。この青い蝶は立山で出会いました。 名前がわからないけれど美しい青に惹かれます。 照屋勇賢の「警告の森」はマクドナルドなどの紙袋を ふくらませ長方形にして開いた状態で展示してあり、 見る人は紙袋の中をのぞきます。袋の中は樹木が立って いるのですが、紙を繊細に切り抜いた葉群れも美しい 一本の木が立っているのです。そしてそれは紙袋自体 から切り抜かれています。紙も木である、木も紙である というメッセージが発せられています。大量消費している 紙袋はすぐにゴミになってしまう。そうした日常の中で 日常の行為を意識してみることで、そこに潜む環境破壊 の危機に気付かされます。でもただ紙袋からうまれた 木がほんとうに美しく、美しいからこそアートの力で 人の中に刻まれ、どこかでメッセージが生き続けるの だと思えます。 アトミックサンシャインの中へ展の作品についての 照屋勇賢のトークを聞けます。「Dawn」の映像も
少し見られます。


風の族さんがジュンク堂新宿店で私の詩集『青い影 緑の光』を
買いましたよというメールをくださった。
いまも書店に出ているなんてうれしいことです。



[代官山でアトミックサンシャインの中へ展]

8月25日
代官山のギャラリーで「アトミックサンシャインの中へ展」という展示をみました。
照屋勇賢の「さかさまの日の丸」と「Dawn」よかったです。
デュシャンの便器が、いまこのような形で、日の丸を裏返す
という行為で日本の今を考えさせるということが照屋勇賢の
深さ、鋭さ、で迫ってきました。照屋勇賢の作品をはじめて
見たのは横浜トリエンナーレでした。「警告の森」は忘れ
られません。
またオノ・ヨーコの白いチェス盤も、考えさせられました。

 注意・・グチリます  きょうは母の足の治療でまたも切開に付き添って、ぐったりしてます。 いやー、麻酔なしでメスで切られるのは、そーとーに痛そうで、母の背中を支える こちらも神経が参ります。でも今日から新たな皮膚科の専門医さんで、期待して しまいます。これから予防をなんとかうまくしてほしいです。 [伸びる眼 /「榎木の僧正」] 8月23日  一pにも満たない小さなカタツムリをかわいいと思っていた。けれど良く見ると 角のようなものは、ぐーと突き出された眼。眼が体の外へ伸びてゆくのを自分の 身に置き換えて考えると、ぐんぐん突き出てゆく眼なんて、とてもじゃないけど無理。 グロテスクで想像するのも恐ろしい。でも脳のなかで言葉を追って記憶の発火が リゾーム状に繋がった細い角のようなところをどんどん発火の火を輝かせ伸びてゆくのは、 見ていられたらきっと楽しいのにと思う。それは言葉の疾走、未知への遭遇を見続ける 無い眼の先端にちがいない。 徒然草。おもしろいという声に答えまして「榎木の僧正」を紹介します。 「公世の二位のせうとに、良覚僧正と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。 坊の傍に、大きなる榎の木のありければ、人、「榎木の僧正」とぞ言ひける。 この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根のありければ、 「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを堀り捨てたりければ、 その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。」 良覚僧正は怒りっぽい人でみんなから嫌われていたのでした。 だから、良覚僧正の寺に大きな榎木があるので、人は彼のことを 名前で呼ばすに、「榎木の僧正」とあだなをつけて呼んでいたのです。 すると、こんなあだななんかつけやがって、と怒って木を切ったわけです。 すると切り株が残った。で、今度は「きりくひの僧正」。 またまた怒って引き抜くと「堀池僧正」。 ってなぐあいにあだなは無くなってくれないのです。兼行は今度は 皮肉な解釈を一つも書いていないのですが、でもやっぱりこのしらっとした かきっぷりには、地位の高いやなやつを嘲笑する毒が満ちております。 [猫またよやよや] 8月22日  それは高校の時、古典で習った吉田兼好の徒然草の一節。人を食らうという猫またという ものがいて。遭遇した人が「猫またよやよや」と驚き助けを求めるびが可笑しくて、 猫またっていったいどんなものなのだろうと好奇心をくすぐられたのでした。 印象深かったので、いまでも消えずにいた猫またへの興味があり、黒部渓谷をゆく トロッコ電車の駅に「猫又」を見たとき、あっネコマタと叫んでいました。奥山にいる といわれていた猫また。その気配を遂に、目の当たりにしたのでした。やっぱり山の奥 だったのだ! 「奥山に猫またといふものありて、人をくらふなる」と、人のいひけるに、 「山ならねども、これらにも猫のへあがりて、猫またになりて、人とることはあなるものを」 といふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、 ひとりありかむ身は心すべきことにこそと思ひける頃しも、ある所にて夜更くるまで連歌して、 ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふとよりきて、 やがてかきつくままに、頸のほどをくはむとす。肝心もうせて、ふせがむとするに力もなく、足もただず、 小川へころび入りて、「助けよや、ねこまた、よや、よや」と叫べば、家々より、松どもともして走りよりて見れば、 このわたりに見しれる僧なり。「こは如何に」とて、川の中よりいだきおこしたれば、連歌のかけものとりて、扇、 小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。  飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。 徒然草。とても好きでした。久しぶりに目にすると、懐かしいです。 本文を読むと、小川のほとりとあり、そこも黒部川のほとりだから、やはり合っている。 ここでは連歌ですが詩歌と関係あるのもおもしろいものです。そして僧なのに、もののけに弱い ところとか、連歌の賞品を大事に懐に持っているなども俗っぽく、兼行の皮肉で鋭い まなざしがおかしみをうんでいて、さすがです。話の落ちとしては飼い犬となっている けれど、やっぱり、文章のなかの猫またの存在感は圧倒的。心に刻まれます。 きょうは9月15日のもーあしび朗読会のチラシをPDFからプリント。  そしてドリンク引き替え券をかわいいスタンプ数種を使って作ったのでした。  予約は800円になります。よろしければ私宛でもよいので予約のメールを  お願いします。  [映画「TOKYO!」 外国の監督3人の東京観は鋭かった] 8月18日  故郷へお墓参りにゆくため電車の指定を取りに渋谷駅へ。 シネマライズで外国の監督3人のオムニバス映画「TOKYO!」 を見る。 ミッシェル・ゴンドリーfromニーヨークは「インテリア・デザイン」 で友達の家の居候させてもらっている女の子タカコが、居場所を失って ゆくのだけれど、目に見えるように自分が失われてゆくところが、 迫ってきた。映画監督の卵の彼は映画にばかり気持ちがむいて、 タカコのことをちゃんと相手にしていない。友達にもうざったがられ 陰口を言われると、タカコは居場所がなくなり、本当に胸に穴が開い てしまってパニックになる。友達に悪く言われるのは人が思っている 以上に辛いもの。その人を壊すもの。そういったところをふとタカコ がシャツのボタンを開いてみたら体に穴があいていて驚愕するという ことで表すのは本当に鋭い。そしてタカコは街へ逃げ出す・・。 レオス・カラックスfromパリは「メルド」で銀座のど真ん中かのマンホールから 怪人メルドをはい上がらせ、人々に危害を加えては、またマンホール に入ってゆく男を追う。人が嫌いだから、という理由でメルドは彷徨っては 危害を与えるが、日本人がなぜ嫌いか、という問いに答えたメルドの 単純な答えが人種差別の起源でもある赤裸々な一言で、目がさまさせられる。 レオス・カラックスは本作が9年ぶりの新作。「ボーイ・ミーツ・ガール」 「ポンヌフの恋人」で主役を演じたドゥニ・ラヴァンが異様なメルドを 演じている。ずっと監督の分身を演じてきた彼だが、今回もパリで ふと監督にわき起こった憎しみから発想したというから、怪人メルドも 監督の分身なのだ。 ポン・ジュノfromソウルは「シェイキング東京」で10年間引きこもり の男を見据える。男は「ゆれる」で兄役だった香川照之で、ひきこもる 人の躊躇を体感させてくれる。ピザの配達の女の子と目を合わせ、それ は10年ぶりに人と目を合わせたことなのだけど、すると、気持ちが 激しく揺れる。その揺れを地震として激しい揺れで現すところが、 内面の外化として鮮やかだった。監督は田園都市線で通っていて 人々が孤独な膜を作っているのに気付く。人に触れないように、人と距離をもとう という強迫観念に捉えられているようだという違和感をもったことから この映画を発想したようだ。東京の人がみな引きこもりになる映画を。 孤独を保つことは、ほとんどの人が日々ふるまっている態度で、引き こもりの要素をもっているといえる。 それぞれ監督たちの東京観は、とても鋭かった。特に身体が欠けてゆく タカコのことは切なく、身につまされる。 そして、何で、どうして、と思う。昨日の夢で私は胸部から頭にかけて は人だけれど胴から下が作り物で足はイーゼルのように細い木の足に なっているイメージを見ていたのです。タカコは友達の家から飛び出して 街路を歩いていると靴が外れしまって、あれっと見ていると、足が木の 棒になっていたのです。何かあまりに似すぎています。 それはミッシェル・ゴンドリーの想像力は人間の無意識のビジョンを アニメーションで鮮やかに表せる鋭い人だということ表していると思い ます。 [雫/「表現の現前性」鈴木志郎康著を読む] 8月18日  雫。とても久しぶりに出会う。炎天下で焼かれ渇いていた体がほっとする。 体がほっとする、ということは内面がほっとするということにも通じる。    多摩美の映像演劇創刊号のなかの「表現の現前性」鈴木志郎康著を読む。
2年前に読んだときよりもよく判る。それは私がビルの通路で、詩と写真の展示を
継続して行って、詩と映像とそれを作る行為について意識しているからだろう。

表現は意識的に行う行為だということを中心に論じられている。
「言葉や、映像や、ブラウザの表示などに意識を働かせるところで
表現といえる。意識を働かせるのは、言葉に、また映像に、あるいは
ディスプレイの表示に、形を持たせるということだ。形とは五感を
働かせ、統合して、誰とでも共有できる、記号の集合体といえる
ものだ。言葉の意味、映像に写っているもの、表示されているもの、
それらの表現内容となるものは、そこに与えられた形を持つもの
として受け手に渡される。」

「形がなければ渡すことができない。形を作れるもの、つまり記号
媒体によって内容を形に作るのが表現で、表現するときは、意識を
働かせて、内容に合わせて、その形の細かいところを一つ一つ決めて
行き、そこに喜びを見つけるということだ。」

「その細部を決めていく瞬間に表現は実現される。」

「表現の行為は生もので、終われば消えてしまう。その結果に生じた
作品は表現の痕跡、敢えて抜け殻と言ってしまってもいいようなもの
だ。」

「ここでわたしが強調したいのは、「一つ一つ決めて行く」という
生な行為が「表現」だということだ。そこに喜びを見いだせるから
やる、それが表現だ。メディアが発達して、人と人との接触が間接的
になって行く傾向が強い現在、表現の生な行為と、その結果の「作品」
と呼ばれる「物」や「事」とは区別した方がいいということだ。」

「「表現」はあくまでも、言葉を選んで書いている作者の頭の中
にしかないと、また映像を投影し編集している現場にしかない
と言ってしまいたい。表現は、それを行う者の行為だと言いたい。
表現は人間の行為だと言いたい。表現は現前するものだ。そして
喜びを共有する。」




表現は人間の頭のなかにしかないこと。そして、表現は誰にとっても
喜びとしてある。優劣はない。
優劣はないが表現の結果としての作品は巧拙があり優劣があり
評価されてしまう。悲しいことだがそれだから、「表現」と「作品」
は区別したほうがよいという結論だ。
私はここで特に「「一つ一つ決めて行く」という生な行為が「表現」だということだ。」
というところで、その生な行為を行っている私の日々。このホームページを書くこと
や、詩の言葉をパソコンの画面に書きながら探すこと、まだ情報であるデジタル画像を
選び整えててゆく行為が反射された。





[木々の夕暮れ]
8月15日  きょうも猛暑で昼真は皮膚が痛いほどの日射でした。 そんな暑かった一日の終わりは、木々の夕暮れの光景で目を落ち着かせたい です。     9月15日の「もーあしび朗読会」までちょうど一ヶ月。 チラシを作るために写真選びをしました。 幾つかピックアップしてみて、五十嵐倫子さんに送り、チラシのPDF作成をお願いしました。 新宿眼科画廊では、今回は朗読会場の他にギャラリーの小部屋を借り、参加型の展示を します。 画廊のお客さんにもその小部屋で、気軽に詩のことに触れていただければという考えです。 その基には、詩をすこしでも多くの人に知ってもらいたい、詩について興味をもつきっか けになっていただけたらという気持ちがあります。 せっかくギャラリーなのだから、アートを好きな方達に詩に触れていただく機会を 開いてみもいいですよね。詩人のみなさんにご参加いただけるとうれしいです。 詳しいことは追ってアップ致します。 きょうは終戦記念日でした。 この戦争で日本では310万人が亡くなったということを 知りいまさらながら愕然としました。 野坂昭如「戦争童話集」のアニメをテレビで見たのですが 満州で敗戦になり、日本へ逃げてくる一家のお話でした。 少女がはしかになり、途中で原っぱに置いていかれる、 という悲惨なものでした。はしかは感染するから引き上げの仲間 に入れられないと迫られ、子供を捨てる母が叫び泣く狂乱が、 胸に食い込みました。財部鳥子さんの小説を思い出します。 [ミドリの内外/鈴川夕伽莉詩集『ミドリンガル』] 8月12日  どうにも気持ちが沈むので、どうせならミドリのなかへ沈んでみよう。 草の間に紛れ込んで迷子になってしまおう。 溢れるような吸い込むようなミドリに溶けてゆく。 写真は黒部渓谷。トロッコ列車に乗って着いた鐘釣駅のちかくです。 鈴川夕伽莉さんの詩集は掌サイズ。さまざまなミドリとミドリの底の水色や青 のデザインが素敵な『ミドリンガル』(発行 祐園)を読みました。 とてもストレートなのですが、日々の仕事場の淡々とした叙情 はぎりぎりだからよけいに切ないです。 それらの的確な意志と批判が現在を映しています。     「病棟ピクニック」抄 病棟の東の空がしらじらと明ければ 今晩のお勤めも終わりなのだなあと 実感するわけです。 勿論 突然ドクターコールが鳴って 「救急隊より、3歳熱性痙攣女児の搬入依頼あり。 40分以上痙攣が止まりません。受け入れ出来ますかっ?」 なんてことになる可能性も十分ありますが ひとまず、あと数時間で当直時間帯は 終わりなのです がらりと窓を開けます (先生、虫が入るので止めてください) ええでもごめんなさい、 一瞬だけでも風を吸わせてください。 聴診器を投げ白衣を脱ぎ捨てて 強烈に青みを増す空まで ピクニックにでます。 世界中のどの朝を探しても 希望の朝である確証など 見つけられませんが、 世間知らずの私は取り敢えず 今日いちにちの仕事の段取りを 立て始めるのです。 ドクターコールが鳴ります 「救急隊より、3歳熱性痙攣女児の搬入依頼あり。 痙攣は止まりましたが白目をむいて 呼びかけに応じません。サチュレーション70。 受け入れ出来ますか?」 ビンゴ。 (ていうかそれ、痙攣続いてるやん。)  作者の職場のこれは日常なのです。激務の医師の 「ええでもごめんなさい、一瞬だけでも風を吸わせてください。」 という願いの言葉のやわらかさが胸を突きます。 当直の後、予感通りに急患が運びこまれ、自分の休息を犠牲にして もう意識は、正確な病状把握へと開かれてゆく。命を削っている 日常の現場はこのように抜き差しならないし、このように 窓の開閉でゆるくかわされる会話の平凡なひと齣で構成されている。 「ミドリンガル」は、医師だから、患者だから、という線引きを突き崩し て、ただの人として、修羅場も恋人とのおだやかなひとときも、親への反感も 詩のことばで読ませてくれる。そこがとても新鮮でした。 [短い短い夏に咲く・高山植物] 8月5日 チングルマの群生。ネイチャーガイドさんがいうのには、本当に短い期間 しか花を咲かせていられないので、多くはチングルマというと白い花では なく、綿毛になっている姿を指すほどだそうです。そして「決して植物を 踏まないようにしてください。一度踏んでしまうと、回復に10年かかり ます。」と注意を受けて、早朝に歩きだしました。 立山にはライチョウがいて、この這松の実をライチョウが食べるそうです。 残念ながらライチョウの姿をみることはできませんでした。 まだそこここに雪が残っていて、雪上を歩くときは滑って緊張しました。 紫が愛らしく、イワギキョウのようです。とても小さい花で地にしがみつくように根を張り 茎を伸ばしていました。 とても珍しいクロユリ。一カ所しか見られなくて、これもネイチャーガイド さんが教えてくれました。小さな可憐なクロユリでした。 すっとのびあがるのはクルマユリの花。 [標高2450メートル・雲上の立山] 標高2450メートルの室堂のターミナルでもあるの立山ホテルを一歩でると そこは 異界。 ここはどこだろう。なぜここにいるのだろう。 足りない酸素のために、すぐに歩くのが苦しくなるなかで 自分のいる理由を探していた。 あまりに人のいらない自然の中に立って、人の猥雑さのひっかかるところが なくなってしまうから、私のいる理由がみつからない。 ガスがかかる、というもののそれは雲の中に入ってしまうことなのだ。 雲上の地にいて、私が欠けてゆく。 [立山黒部アルペンルート] 7月30日 扇沢。みえない水が扇のようにながれている。地名に触れるともう水っぽい。 新宿から中央線に乗って松本にでる。それからバスで向かったのが扇沢。 ここからトンネルトロリーバスに乗って黒部ダムへ向かう。 路面電車のような電気で走るトロリーバスに乗ったのははじめて。 静かでエンジン音がしない。 この山で生活していたツキノワグマが痛々しい。動物の剥製はどういうつもりで 作られるのだろう。襟首の白い輪の熊が木の実を食べたりするところを思い浮かべ てみる。直視したままでは物の滑稽さに落ちてしまうから、熊を取り戻してみる。 例えば高層ビルの脇腹から、多量の放水がなされているような高さの スケールで圧倒的。黒部ダムはおそろしいほどの水圧で水を霧のように 放っている。 200数段の階段を上ってダムの展望台に行ってから、外階段をまた200 数段下りる。その頃、ダムの放水のところに虹が架かっていた。放心しながら 虹と水をみていると、時間が消えてなくなってしまう。虹が偶然現れたこと の喜びと、放水の霧の水にかかる虹の7色の光は神秘的な瞬間を実感させる。