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2009/1

[メディア・スーツを着た80年代]

1月30日
 詩誌『酒乱』のアンケート「特集80年代の詩を読む」に答えるために
いろいろ読みかえしてみる。「1、1980年代の日本の詩というとどんな印象がありますか。」
広くてどう答えたらよいのか迷いながら書いてみた。

私なりのものでしかない。拙い独断です。



 吉岡実の詩が、画期的だという印象が強い。これまでは、詩の外の社会状況が、詩の言葉と地続きで、
状況がわからないと詩の比喩が正しくつかめないことが多く、詩を理解する上で時代背景の常識が
必要だった。(その時代を知らない人が読むとよくわからない)比喩が社会状況に寄りかかっていた。
これに対し、吉岡実の詩は、作品が詩の外から自立している。比喩は、詩の言葉やイメージを辿る
ことで受け取ることができる。

 詩が詩のなかで自立してゆく作品が生まれ始めたことが80年代の特徴ではないか。
 意味の文脈ではなく脱線も可能になり、文脈の転換で常識を覆したり、前後の落差であらたな世界
の見え方を発見させてくれた。そこにはソシュールの言語論が大きく影響していたと思われる。「意味
するもの」と「意味されるもの」が一対一対応ではないという意識化が進みシニフィアンとシニフェの
構造を頭におくことで、詩の言葉の選択がより細やかになれるという自由を得られた。
  
 詩が背景から自立してゆく詩を読ませてくれたのは私にとって、入沢康夫、鈴木志郎康、藤井貞和、
岩成達也、伊藤聚らの先駆者達だった。その後、詩は言葉自体が浮きあがることが重要でそうして書か
れた詩から、書く者も読む者も、発見をすることができるということが体感できていった。その後は、
ねじめ正一、伊藤比呂美がかろやかに、その線を継承して個を開くように進んでいったように見える。
 また詩において「言葉自体」を書くこと、読むことの発見やおもしろさが、浸透。従来の意味の女性
性というような文脈ではなく金井美恵子の言葉が書かれ、意味の文脈でなく吉原幸子の言葉の屹立を言葉
の姿として受け取り、井坂洋子のきつく焦点をしぼる詩などを、言葉の新鮮さという視点で受け取ること
が可能になっていった。また言葉がより細やかに意味の文脈でなく選択されて書かれていったことで川田
絢音の緊密な体感も言葉として実現されていった。
 そしてまた80年代は、詩の朗読ブームがあり、都市のライブハウスなどて盛んに朗読会が催されたり、
好景気のおり企業による詩の講座も多々初められ、詩を書く人、詩を朗読する人が増えていった。カル
チャースクールでは40名以上が常に受講している期間もあり、盛況だったのを記憶している。
 
 詩が大衆化したことには、もう一つ文字が「手書きではなくなった」ことも影響している。80年代
後半には、ワードプロセッサが販売され、ほとんどの人が買い求めた。またメディアはメッセージとい
うように、何かを書く道具を手にした人がこれまで書かなかった詩を書いてみるという行為にチャレン
ジしはじめるケースもそう珍しくはなかった。

 そうして手軽に多くの人が言葉を書きはじめた時代は、人々がメディアと切っても切れない関係に
なっていった時代でもあった。たとえば、ビデオデッキが普及し、レンタルビデオ店が街に初めて現れた。
これまで所有できなかったアニメや名画をビデオで所有できるようになり、好みのテレビの番組を録画も
編集もできるようになった。テレビ、ビデオ、ウォークマン、コンピュータ、ビデオカメラ・・。
メディア・スーツ・・「かつて「もの」が人間の思考や感情を変えたように、現在ではメディアが
人間を変えている」と、時代を詳しく論じているのが伊藤俊治の生体廃墟論だった。人々の意識は、
ここに来てなまの体をはみ出して、感覚や意識がメディアの中に入り込み拡張していった。そういう環境
のなかで生きる私達の詩の発語も影響を受けないわけにはゆかなかった。メディアが人の思考や感情を
変えて、発語も変えはじめていった。




[駒沢公園で]



1月26日
犬連れではなくても歩くことはできる。歩いていると花壇の少ない
公園の僅かな鉢植えからエリカが満開になって空へ伸び上がっていた。
自転車の調子を直す男や、ベンチでベージュの日傘を差している老女や
激しく息を切らしてランニングしている初老の男や、ブルーシートを広げ
ピクニックをしている幼児と母親のグループ。そういう人たちがいても
いなくても、私がいてもいなくても、エリカは咲き、カラスの嘴は輝き
公園の樹林には凧が絡まって、光と風にゆられている。私がいても
いなくてもカメラのボタンが降りれば何かの光景が映り込む。
清々しいといってしまってもいい。外部は私ではないし、人達は遠く
近く地上に関与している。儚くて濃い。

 


[詩誌「モーアシビ」16号の発送]

1月25日
先日「もーあしび」16号ができあがり、七月堂さんに集まり発送などの作業を
行いました。私は詩と写真で参加。(詩「ヘアーサロンで」が載ってます)
その後、打ち上げでコラーゲン鍋などを囲んで近況報告もしました。投稿をがんばる
ブリングルさん、白鳥信也さんは単独朗読の企画や、内山昭一さんの昆虫食について
渡邊十絲子さんとジュンクン堂でトーク予定。2月初め。五十嵐倫子さんはブックカ
フェへの目標に向かっている。福田純子さんは春にお能の企画、初めてお会いした
大橋弘さん(思っていたより若い!)からは歌集をいただく。辻和人さんは演奏も続け
ていて皆さん、多彩。その活気の反映で、16号は面白いです。冊子の厚さもいつも
より厚い。七年ぶりに詩を書いた呉生さとこさんの詩は、病いと闘うただなかで詩を書か
れていて、様々な文章を仕事として書いてきたけれど、こういう時は詩の言葉でしか
(気持ちなどを)表現できない、と打ち上げのときに語られて、そのことが胸に焼き付
きました。「もーあしび」16号には七月堂の知念明子さんが首謀したCD詩集「音響遊
技シリーズ」について渡邊さんのインタビューもおもしろいです。
頒価500円です。ご購読は白鳥さんか私へご連絡ください。年間購読もできます。



[詩誌「フットスタンプ」16号]

1月20日
 白鳥信也、池田俊彦、遠藤誠、小島浩二、田辺武さん等フットスタンプ団発行の
詩誌「フットスタンプ」16号が出来上がり、送っていただきました。
 昨年の夏に行った「座談会 北爪満喜さんを迎えて」が掲載されてます。
 詩と写真についてフランクに話しながら、詩の言葉と写真との関わりについて
や、詩人にとっての写真についてや、写真が生まれるとき、について考えて
日頃実践のなかで感じていたことを拙いながらも言葉に代えることができました。
また映像詩『3月の呼吸』の言葉の全文が掲載されています。
今号のゲストは樋口えみこさんです。
なお表紙の写真は遠藤誠さんです。

読んでみようかと思われた方はご連絡いただければ無料でお送りします。
 


[水族館で/詩 もとのもとの]




1月15日

詩 もとのもとの


水に手を浸して洗い
包丁で野菜や肉を切って食べるものを作る
ブラシを握って掃除をして
話しかける
きょうの調子はどう? 
ジャンプできる? 
ぐるっと仕事してこれる?
健康に気を配って顔色を見る
どんな具合なの
目を見る
お腹の調子は?

ペンギンが飼育員のじゃまにならないように移動している
飼育員の手の甲に穴があいている 赤い皮膚が穴からみえる

手の傷に洗剤がしみて痛いから
薬をつけたりバンドエイドを貼ったりするけれど
手はすぐに雑巾をしぼるのでスポンジでごしごし擦るので
するっと剥がれてしまう 何度貼っても剥がれてしまうばかりだから
もうそんなことしていても埒があかないので
水が浸みるまま掃除をする
食べるものを作る
手の甲に小さく皮膚が剥がれて赤く穴が開いて
痛みがその赤
ブラシを握ってトイレや風呂の掃除をして
変わらない
生き物の
もとのもとの
ねもとの
ところ

手指の傷口の赤が反射する
痛い

もとのもとの
ねもとの
ところ

変わらない
痛い

チチハハのハハの
もう死んでしまった
人と眠りのなかで出会う









投稿誌サイト「ポエニーク」の批評コーナー「4hweels」に詩誌評がアップされました。



[赤いハート/谷内修三さんの批評・北爪満喜の詩「さしのべる」]
[
1月7日

投稿誌サイト「ポエニーク」の批評コーナー「4hweels」に詩誌評を書きました。
アップされたらまたお知らせします。いまは前回のものが読めます。
今回のテーマは「働くことが、これほど困難な時代になってしまって、詩はどうしたらよいのだろう。」
です。


●谷内修三さんが私の詩「さしのべる」の批評をブログ「谷内修三の読書日記」で批評してくださいました。
引用させていただきます。
 
北爪満喜「さしのべる」
詩(雑誌・同人誌) / 2008-04-06 01:28:01

 北爪満喜「さしのべる」(「エウメニデスU」31、2008年02月15日発行)
 枯れた枝をしたから見上げた写真といっしょに掲載されている。写真に撮った風景を、
もう一度ことばでとらえ直している。
 その中程。


 細い指と尖った爪を霧に覆われた空へきりきりさしのべている。
 見つめていると、ハハを想いだした。
 ハハというまなざしは、このようではなかっただろうか。
 霧のような他者のほうへコのほうへ、刺さってしまいそうなほど
 ことばのようなまなざしをのべ、
 そしてまなざしのなかに込められた想いはおおくは届かないまま
 届かないまま、まなざしの痕跡が、霧のなかに刻まれてゆく。
 影のように、霧のなかに模様をつくる。
 まるで霧のこころのうちの傷のように。


 「ハハ」とはもちろん「母」である。「コ」は「子」である。
 ところが北爪は「母」とは書かない。「子」とは書かない。漢字で書いてしまうと、ことばが
既成のものにしばられるという感じがするのかもしれない。既成のものではない何か、北爪がほ
んとうに感じているものを探すために、あえてカタカナの表記をつかったのだろう。
 既成のものではない何かを探そうとする想い、熱意のようなものは、


 そしてまなざしのなかに込められた想いはおおくは届かないまま
 届かないまま、まなざしの痕跡が、霧のなかに刻まれてゆく。


の2行に凝縮している。「まなざし」「届かない」がくりかえし、そしてただくりかえすだけではなく、
順序がいれかわなりがら手さぐりしている。そこには具体的には見えないもの、「まなざしの痕跡」と
いうような、ことばでしかたどれない何かが浮かび上がるのだが、この見えないものを存在させるには、
同じことばをくりかえすしかないのだろう。同じことばをくりかえしながらでも、なんとかそれを明確に
したいという思いが、そこには存在する。
 そして、この熱意のようなものに揺すぶられて、最後の3行で、ことばが不思議な化学変化を起こす。

ハハというまなざしはチのそこからのびあがる樹木かもしれない
チのそこから空へむけてのびあがる樹木の叫びににている
鳥をもわたしがうんだと


 「ハハ」は「母」である。それは前とはかわらない。しかし、「チ」はどうだろうか。「地」であろうか。
それとも「血」であろうか。「地」と読むのが論理的かもしれない。しかし、私は「血」を最初に思い浮かべ
た。
 「届かないまなざし」は「血」を源としている。「まなざしの痕跡」も「血」を出発点としている。「母」
は「大地」であるが、その「大地」は「大血」でもある。おおいなる血でもある。そこからすべてが生まれる。
生まれたもののなかには同じ「血」が流れている。その同じ血、同じ血でありながら、違ったものになっていく
ものに向けて、いつでも「手」を「さしのべる」−−そこに母の「原型」、母の「神話」のようなものを感じて
いるのだ。
 「血」は樹木のなかを通れば樹木の叫びになる。そして、その叫びは樹木であることを超越する。「鳥」をも
生み出してしまう。「樹木」と「鳥」は同じ「血」からできている。だからこそ、強く強く結びつく。

 「ハハ」は「母」を「母」以前の混沌に還元し、そこから「血」は流れはじめる。何にでも変わりうるエネル
ギーそのものの運動として、どこへでも動いてゆく。「樹木の叫び」になり、「叫び」は「鳥」を生む。こうい
う自己超越、自己を次々に乗り越えて自己以外のものに変身し、なおかつ固い結びつきとしてあらゆるものが存
在しうるのは「チ=血」だからである。
 「地」は「チ」という音そのものに解体、還元されて「血」へと化学変化を起こし、そこからすべての世界が
はじまる。
 「ハハ」「チ」というカタカナ表記には、はっきりした「思想」が込められているのだ。



[渋谷で正月映画「怪人二十面相」]

1月3日
 お正月らしく映画へ。金城武のファンなので「怪人二十面相」、みたかったのです。
脚本家でもある佐藤嗣麻子監督はダイナミックなアクションのなかに、ユーモアや優しさを入れて、
金城武の持つ魅力を最大限に引き出してくれていました。私としては満足。とてもよかったです。
 設定は第二次世界大戦がなかった1949年の日本。華族が支配者層となっていて、軍部が力
を持っている激しい格差社会。また結婚の自由もない社会です。暗い社会ですけど、キャラクター
の明るさが、物語を支えていました。
 空襲を受けていない東京の街並みに超巨大ビル、羽柴ビルが一つ聳え、帝都タワーの電波塔があります。
サーカスの曲芸師の遠藤平吉(金城武)は、だまされて怪人二十面相に仕立て上げられてしまう。おりしも、
富豪華族の令嬢・羽柴葉子(松たか子)が、親が決めた結婚相手の探偵明智小五郎と超巨大ビルの羽柴ビルで
結婚式を挙げようとしていて、曲芸師の遠藤平吉はビルを襲撃した怪人二十面相と誤解されていまう。
 スラムには子供たちがいかにも昭和初期頃の汚れた身なりで身を寄せ会って暮らしている。そこに
二十面相がこないか、貧しい子供達の住処を見張っているのがびしっとしたブレザーを着た少年探偵団
たちだ、というのが、背筋がぞーっとしました。
 アクションありコメディあり、しかもおおげさではなくリアルな社会批判がはいっている、
ワイヤーアクションではない重力のある画面は、これまでみたことがないものでした。
 
 映画が終わり、夕ご飯を作るために買い物をして家へ。
シカが遠くをみているような、夕暮れでした。


[一月一日は三日月]
     

1月1日
 大掃除をして疲れたけれど窓硝子や床やドアがすっきりして気持ちいい。
フォーレのCDを載せたままだったプレイヤー。それを聴きながら、お雑煮を作る。
(うちではこんな手順です)小松菜をゆでて切り、鶏肉を切る。かつおぶしを熱湯に入れて
出汁をとり、鶏肉を入れて煮る。煮えたら塩や醤油で味つけをして、小松菜を入れ、
焼いたお餅を入れる。ひと煮立ちしてから、かまぼこを一切れ入れる。食べる直前に
お椀によそり、三つ葉をのせる。そして柚を一かけそぎ、掌にのせ、ぽんっと一度
叩いてから、お雑煮にのせる。
柚の香りが逃げないようにお椀の蓋をして、食卓へ運びます。

昼の月が薄く流れる雲のそばに出ていて、三日月なのがドラマティックだった。
ニューイヤーマラソンのテレビ映像の前では、スイトピーの蔓も走り出しそうな
ランナーの形をまねている。
走りださずに、数冊詩誌を持って歩きに出かけ、コロラドに入ってコーヒーを
飲みながら読む。風がとても冷たかった。

SNS「なにぬねの」で風の族さんが通路の写真をみた感想を書いてくださって
いて、嬉しかった。