2009/9/30へ ゲストテーブル 川口晴美さん ・いつも明るく健やかな気持ちでいられたらいいが、そうもいかない。説明のつかない不安や哀しみを抱き、 不幸なわけじゃないのに心身が落ち着かず漂い出してしまうこともある。それを受けとめてくれるのは、 現実の日常の枠組みにおさまるお説教ではなく、表面的なポップソングでもない、詩の言葉だと思う。 五十嵐倫子の詩集「色トリドリの夜」(七月堂)は、今ふうに言えばアラサー≠セろうか、もう女の子 ではいられないけれど、大人として生きていく自分の姿をまだつかみきれない「私」の揺れを、素直に描く。 仕事帰りに定食屋の窓際カウンター席で「お一人様」の夕食を食べたり、残業でデパートの閉店時刻に間に 合わずおいしいクロワッサンを買い逃していることをさみしく思ったり、晴れた日に引きこもって会社を休 んだり。 いつも乗る電車で車両故障が発生し、別の路線から路線へとさまざまな色の電車を乗り換えて帰る(だから 色トリドリの)夜は、「好きな色で塗り替えていく/(中略)/塗り替えたその先へと/私が歩いていく」 (「振替電車」)という言葉にたどり着き、力強い。 森ミキエの詩集「沿線植物」(七月堂)は、もう少し上の年代の女性の姿を繊細に浮かびあがらせる。仕事を し、家事をする日々の底から、燃えあがる火のような危うさと静かなユーモアが立ち昇る。「薔薇の地形」は、 口中に宿ったバラのイメージが、海岸線や迷路や崖をたどる「私」と「娘」の幻想の物語になり、成長し老い ていく身体の官能を深々と感じさせる散文詩。花びらのように重なり合う時間と空間が美しく、おそろしい。 女性の生活や生理を描いた詩はこれまでにも数多くあるが、この詩の鮮烈さは記憶に残る。 二冊とも、文学や芸術として身構えず、あくまで「私」の個人的な思いを題材にしながら、詩の言葉で丁寧に それをとらえることで普遍的なところへ突き抜けている。読んでいて、ああそうだ、と理屈ではない何かがこ ちらに触れてくる瞬間があるのだ。ふだんは詩を読まない女性たちにも、仕事で疲れた夜半やぽっかりあいた 休日の午後、ファッション誌を開くかわりにこれらの詩集を手にとってほしくなる。 (09.8) ・西元直子の詩集「巡礼」(書肆山田)を開く。やや小ぶりの本に似合う小さめの活字が、ほんの数文字ずつ何 行も続いていたり、左ページにだけくっきり線を引くように一行、あるいは二行記されていたり、活字がブロ ック状の塊にみえる散文詩があったり。意味内容を読み解くよりも早く、言葉そのものが静謐なアート作品に 似た存在感で立ちあらわれる。 「日が差して/こどく//あっちにいったり/こっちにきたり/蝿蚊とんぼ//みんな忙しそう/もんしろ」 (「もんしろ」)余白の多い見開きに漂っているような文字。削ぎ落とされた詩の言葉がやわらかく、それで いて鋭い強さでこちらに「差して」くるようだ。光によって浮かびあがる影。明るい庭をぼんやり眺めている のか、それともまぶしく白っぽくなった道をうつむきがちに歩いているのか。「こどく」なのは語り手か、も んしろか。謎めいた響きの中、ひとりで在ることのシンとする心地がゆらゆらと広がってゆく。 「きょうあったことはだれにも言わない」は、子どもの感覚を鮮やかにとらえた十の断章からなる。百葉箱の 扉を開きたい気持ち、図書館の掲示板の緑のフェルトと金色の画鋲、藤棚の下のひんやり湿った砂。子どもの 頃は判断も解釈もせずに世界をただ受けとめていた。その嬉しいようなこわいような重みが、大人になった心 身に蘇る。 表題作「巡礼」は、火山の対岸にある小都市を訪れた「わたし」と、夢か記憶かわからない「わたし」の暮ら しの情景が、眠りの中で交差する。特異なことが描かれているわけではないのに、緊張度の高い言葉が迫って きて引き込まれた。生きるとは、何かからひとりで身をかわし続けることなのだろうか。そんなことを考えな がら、何度も読み返したくなる。 高橋順子「お遍路」(書肆山田)は、実際に四国八十八ヵ所を巡拝した体験から書かれた詩集。捻挫したり、 宿の階段から落ちてケガをしたり、生きて歩く痛みを引き受けるのは自分ひとりの体。だが、歩きながら 「四国の子だった父」や、先を行く「連れ合い」や、「亡くなったおばあちゃん」にめぐりあい、心を深くつ ないでいく感じが伝わってきて、あたたかい。 (09.07) ・今とは比較にならないほど現代詩が若者たちに読まれていた60年代。そこに登場した鈴木志郎康は、ユーモラス で猥雑な言葉の破壊的エネルギーに満ちた詩で、広く衝撃を与えた。 その後も、詩集を出す毎に読者を驚かせる。同じように破壊的な詩を書き続けているからではなく、常に新たな イメージの詩へと変わっていくからだ。70歳を超えた鈴木志郎康の新詩集「声の生地」(書肆山田)には、その ように書き、考え、生きてきた詩人だからこそ持ち得た自在な言葉が生動している。 初めて「自分の人生」を詩にしたという連作「記憶の書き出し」が圧巻だ。今はもう失われた生家の空間が、独 特のスピード感ある言葉で描き出され、疎開先や空襲の夜や焼け跡に生きる「わたし。/やっちゃん。/(中略) /亀角さんとこの子」の気配が映像的な鮮やかさで迫ってきて、力強く引き込まれる。 鈴木志郎康は映像作家としても長く活動しているが、温かく、きっぱりと距離感のあるまなざしと言葉が、個人 的な記憶をセンチメンタルな私語りにはしない。自らへ向けられるまなざしと言葉はきびしく、深い。「身体の カオスから出てくる言葉。/(中略)/小さなことを言う。また小さなことを書く。//身体が占める空間は、 /小さい。小さくて十分。//その小さい大きさが、/いいなあ、」(「極私的ラディカリズム」より) 「極私的」はこの詩人が繰り返し使う造語だ。個人として存在することの自由を、身体や声(言葉)の独自性か らとらえた詩は、私たちを目覚めさせ、励ましてくれる。「やっぱ、拒否すべき時は拒否したいです。/顔を左 右に振るためには、/回転軸というものが必要です。/身体の上にある頭を振るわけで、/その主軸をなすのが、 /名前を持った個人。」(「お喋り不安」より) 日常のリアルな言葉と向きあい、簡単には着地しないしぶとさで考えと思いを追うなかに、日常が軽やかに打ち 破られる瞬間が生まれる。「生きる自由だ、/詩は。/他人から遠く、/密かに、/元手も掛けずに、/言葉を 社会から奪って、/世界を名付ける/声」(「詩について」より)これこそが詩の力だと思う。 (08.6)