2011.11
      今月へ


[瞬間の みえなかった 光]







11月19日

この日、駒沢公園まで歩いて、ふと渋谷で夜、詩の合評会のときに自分の言ったこと
を思い出した。島野さんと紺野さんがいて、三人だけだったので時間に余裕が
あり、写真のことにも話が向いたのだった。写真を撮るときは何か考えているかと
いう話題になって、私は何も考えていない、といってから、「言葉を探すときは
脳と書く手は繋がっているでしょう。でも写真を撮るときの脳と私は繋がってない
の。カメラは私の皮膚の外にでている。」と言ったのだった。
私の目では知覚できなかったことを、身体はその空間で浴びている。
そういったところが地上なのかもしれない。



[川について考えていて、ゴダールの映画「アワーミュージック」を思いだした]

11月12日
 川のそばを歩いて、まえに書いた自分の文章が気になり、メモとして寄せてみました。

2005年10月20日

 ゴダールの新作の映画「アワーミュージック」はやはり素晴らしい。映像が多層なイメージを含み、
瑞々しく、ドキュメンタリーにちかく、そこには文学も、批評も、希望も、苦悩も同時に映されている。
複雑なのに透明で、現実の複雑さと現実に混在する非現実への跳躍もすっと入って、時間とはこのよう
なものだという質感がリアルなのだった。戦争の映像を集めた地獄編、サラエボの街で撮られたもので
サラエボで講演をする
ゴダールと学生たちの煉獄篇、平和のために殉教した女子学生オルガがゆく森の水辺の天国。三つの部分
からなる。膨大な引用と映像からやってくるものはとても受け止め切れない。でも、体験するように言葉や
水辺が残る。「人間たちは、お互いを夢中で殺し合う。生存者がいるだけでも驚きだ」
「顔が『汝、殺すなかれ』の表象なら、石は何を表すのか」「イメージは喜びだが、かたわらには無がある。
がなければイメージの力は表現されない」

2006年1月12日 
 とても寒さうな枝ぶりだと思う。木には寒いもなにもないけれど。 
 ときに、映像だけで、胸が打たれて、涙がにじんでくることがある。特にゴダールの映画では、
あんなに引用が多かったり、換喩のような風景や人の行為が多く、難解ですらあるのに、ふと、
何もかも意味を抜けて、映されている川の水面に涙がにじんできたりする。「アワーミュージック」
の川は彼岸と此岸の生と死をわける川という比喩で撮られているけれど、映るのは、なんていうことのない、
ただ美しい自然な川で、そのなんてことない川に、至福のひとときを感じ、ああきれいだなぁ、と思う。
じーんとしてしまう。それまでのあからさまな比喩はすっかりどうでもよくなる。
あからさまの意味づけだから、逆に、直ぐに剥がれて、ただの川、という見方がまっさらに生まれるのだろうか。
ゴダールの映像はポップだと思ってきたけれど、ポップの力は、消え剥がれることができる儚さ、なのかも知れない。
そして、よく考えてみると、ああきれいだなぁ、と思う瞬間は、まさにいま、映画のスクリーンに写し出されて
いる川に、一瞬だけ自分のいまが重なっているわけで、映画が終わったら、いえ、次ぎのシーンになったら、
その川のさざ波にゆれる枝の緑も、豊かな水量で護岸工事のない自然な岸に触れながら流れる水にも、
やわらかな水面の光にも、もう会えなくなってしまうのだ。それは、本当の意味で消えることだから、
とりかえしのつかない時間のなかで生きている一回限りの
出逢いなわけだ。映画の物語の文脈で、比喩の川が消えたところで、ほんとうの一回性の川が心を流れたのだった。

ミクシィに載せたあと、このようなコメントをいただきました。

孤穴の孤児さん 2011年11月11日 16:23
    初期はポップと言ってもそれなりわかると思いますが、中期から後期にかけては、
ポップではすまないと思われます。川は石橋のところに番号がふってあるシーンですよね。
いいですね。そしてインディアンの幻影というか本物をみるところ。もうそろそろ私たち
は連帯しませんか、というシーンがあります。同じ場所の異なったところに住む者たちの連帯。

    オルガの存在に、私は泣けます。後期のゴダールは若い者たちが真摯に挑み、敗れる姿を
見せますね。何も出来ない映画監督の姿がそこにありますが、その映画監督にゴダールの編集
の手が見え隠れしているのを感じます。『アワーミュジック』大好きです。切り返しショット
の断絶をすんなりつなげる映画の虚構に、何かをみる思いがします。それはオルガと作中のゴ
ダールの切り返しショットです。つながらないは、つながってみえる、ということです。この
フィクションに賭けられた映画だと思います。


私の返信 2011年11月12日 10:52
    孤穴の孤児さん。
    丁寧なコメント、ありがとうございます。そうですね。わたしもほんとうに「ポップではすまない」
と受け止めてます。ポップの道筋が残されていて、その奧に入ってゆけるようになっているのが凄いと
思ってます。体感を排除しないっていうことかもしれません。




[木津川のあたり]







11月9日
 木津川をはじめて見る。
大阪の友達と会う約束だったけれど彼女は風邪で会えなくなってしまった。
残念。寂しい。京都あたりを一人でいろいろまわる。木津川アートのチラシをもらい
でかけてみた。木津から上狛へあるいた。