今月へ

2014年3月分



[街のあらゆるところに]

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3月30日

街のあらゆるところに、花が咲いている3月。みなこちらが目を合わせれば、
ちゃんと目を合わせてくれる。地面に散り落ちている椿が乾き枯れた姿も
美しい。木が咲かせて虫や鳥がきて、時間を抱えきったあと、目を閉じて
眠っているようだ。
白い椿は覆いの中からこちらを見ている感じがする。

サミラ・マフマルバフの『午後の五時』というイラン映画をずいぶん前に見た。
サミラはイランの若い女性の映画監督。
あのとき映画館には、イランの女性が頭からかぶり全身を覆うブルカが2着飾られていて、
触ってみたらごわごわしていた。風通しも良くなさそうだった。こんなのを毎日着なくては
いけないなんて、なんて大変なのだろう、熱そうだし、と思った。
それでも輝きを失わずにいる女性たちを身近に感じられるように撮っていて忘れられない。
『ベオグラード日誌』を開いてみたらイラン映画『黒板』について書かれていた。
黒板を抱え「文字と算数、教えるよ。やすいよ。」と歩く教師たちをとりまくイランの
生活が描かれているようだ。
これもサミラの映画と知って見たくなった。



[草木だけの庭で]







3月24日

誰もいない家の庭に、勢いよく伸び続ける枝や太くなり続ける幹が
冬の陽差しに光っていた。
勢をましていた木は過ぎた時間を蓄えてこの庭の主になっている。




[土星と出会ったところ]



3月20日

車窓から撮った母校。
屋上のドームは、前橋女子高校の天体望遠鏡。
初めて、肉眼で土星の輪をみたところ。
その日、地学の授業で夜まで残って、屋上のドームに入って
天体望遠鏡を覗いたのだった。
私たちを包むドームが土星の位置まで回転するのはSFっぽくて
わくわくだった。



●お知らせ
 山田兼士さん編集の大阪芸術大学文芸学科の学生さんたちが発行している
『別冊・詩の発見』 13号に詩「ハンドルから 両手を離して」を載せていただきました。



[月の枝]



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3月18日


少し前、夕暮れに歩いていて、ふと花の香りが届く。
これは梅の花の匂いだと気付いて、見上げると小枝に咲いていた。
浅い春の白い花びらが夕闇に透けて、その透明な方へ引かれてゆくと、まなざしの遠くに月が出ている。

月は地上のどこにていも見えるから、ばらばらなまま、繋がっていられる。
物陰や、ビルの後ろから、かっと満月が現れたりすると、どきっとするけれど、気分が弾む。
でも、そんなときは、見られてしまった、となぜか思う。

●お知らせです。高円寺の古書店アバッキオさんで私の詩集『虹で濁った水』が借りられるようになりました。
詩×旅はおわってますが、よかったら手にとってください。


●共同通信のコラム「詩はいま」3月に 倉橋健一詩集『唐辛子になった赤ん坊』(思潮社) 、
北条裕子詩集『花眼』(思潮社) 、手塚敦史詩集『おやすみの前の、詩編』(ふらんす堂) について書きました。
地域の新聞に配信されましたらよろしくお願いします。


[3月の花/アーツ前橋「カゼイロノハナ」メモ]







3月4日

3月になって、また雪の気配はするけれど、花たちは、蕾を開き続けている。

●アーツ前橋のメモ

アーツ前橋開館記念展 カゼイロノハナ 未来への対話

・《自分にできることをする》 

 東日本大震災のときの新聞を切り抜いて植物の芽を生えさせていた照屋勇賢さんの作品タイトルは《自分にできることをする》だった。
その言葉をあらためてみつめた。細い小さな芽が新聞紙から立ち上がって、横から見ると林のように集まっていた。
新聞には震災と原発事故の記事が巨大な活字の見出しで刷られていた。そこから細い小さな芽が無数に立ち上がって、見出しとは別の
静かな林へと一本一本の細い茎が起きていた。

・「静のアリア」

地下の狭い部屋に白木で作られた階段があった。その作品の階段の上は、地上へと続く実際のコンクリートの階段と
繋がっていて外の明かりが青白くガラスを通してみえる。照屋勇賢さんの「静のアリア」。地下の作品と地続きの現実の地上。
外の青白い光をみあげくらっとした。
「タレルの部屋」は・・・空を四角く閉ざすことで、抽象的に空のひろがりと見る人の体感をつなげていた。
「静のアリア」は・・・イメージから創った階段を登ってゆけば、ほら現実の地上へでられるよと、頭の中と現実をつなげて、
抽象的な解放をうながしてくれているようだった。「タレルの部屋」は金沢21世紀美術館でみたものです。

・パフォーマンスなど

楽しんで、作品に参加しながら、アクションが終わってみれば初めての行為として刻まれている。例えば壁に耳を付けて
聞こえる音を耳が拾ってゆくこと。
また、通路を歩きながらよく見ると、壁際や隅にガラスの繊細な管が曲がったもの、くねっている塊のもの、天井から
下がるものなどが、ある。それらは細いガラスのカビ。カナイサワコさんの作品だ。
踏まないように、そろりそろり見落とさないようにゆっくり歩くと、通路は別の空間になってゆく。
例えば、しつらえた部屋の中、湯船に浸かっている人がいる。あるその人から「ちょっとビールを取ってください」と頼まれ部屋
へ入って手渡すことなど。アートの作品空間とパフォーマンスの中に取り込まれていること。そのとき「私」の質は変化している。
鑑賞ではなく私ではなく作品の構成要素として、テーブルの缶ビールを取りにいってお湯の入った浴槽!に入っているパフォーマー
 に手渡す。ちょっとした事なのにあり得ない行き来。パフォーマーはYa-gins(ヤーギンズ)の八木隆行さん。野山でも湯船に入る
パフォーマンスを展開している。