村上天文同好会ホームページ


会報

「北天」

No.12 (1985.5)

 

 ★ 胎内星まつり’85
 ★ 
’84の流星観測結果 
 ★ 
最後の”星空への招待”
 ★ 
胎内星まつりにて
 ★ 
マイコンで描くGALAXY
 ★ 
野辺山にて
 ★ 
個人的に1984年を振り返ってみて
 ★ 
近況報告だよ〜 
 ★ 
会員名簿


北天NO.12
今年は何と日食・月食・ペルセ群・ハレー彗星もやってくる!
村上天文同好会報   1985.5.1


今年もやります!胎内星まつり

名称 胎内星まつり’85
期間 昭和60年8月23日(金)〜25日(日)
場所 新潟県北蒲原郡黒川村胎内平駐車場
主催 黒川村役場商工観光課
企画 JPL(日本プラネタリウムラボラトリー)
協力 月刊「天文ガイド」編集部、新潟県内の天文アマチュア
企画の主旨
 胎内パークホテルを利用し、胎内平駐車場にて、天文アマチュア相互の親睦を深めるための星祭りを開催する。同時に一般の方々にも、星の美しさと素晴らしさをご紹介する。


プログラム 
8月23日(金) 夕刻・開会セレモニー 司会・柳家小えん
夜間・星空観察会 星空落語 各社天体望遠鏡展示会
8月24日(土) 昼間・自作天体望遠鏡品評会 リクリエーション等
夜間・星空観察会 星空落語 各社天体望遠鏡展示会
天体望遠鏡部品オークション 星空音楽会
8月25日(日) 午前・記念写真撮影 自由解散


広報活動
「胎内星まつり」の開催の周知
  ・月刊「天文ガイド」誌上(7月、8月、9月号)
・新聞各社及びテレビ局等の報道機関に対しダイレクトメール等で周知する。
「胎内星まつり」の結果の報道
・月刊「天文ガイド」誌上(11月号又は12月号)カラー2ページ、モノクロ3〜4ページ      以上
・村天もみんなで協力しましよう。とりあえず、室橋君のうどん屋台「はらたまや」は確定。その他 受付・駐車場係・進行・ディスプレイ・アトラクションなどの分担有り。


’84 流星観測

 ’84の流星観測は、少人数ではあったが、回数は多かった。5月に”みずがめη群”7月末に”みずがめδ群”8月に”ペルセ群”(これは2回やった)。当日の天候が悪くて中止になったものを含めれば、6〜7回位になるんじゃないかと思う
 そんな中で、今回眼視のデータとして残ったのは後に述べる3つである。ただ、この3つもいずれもデータとしてはまだまだ不十分であった。観測人数がしっかりしていなかったり、観測地、その他が欠落していたりで(それでも前年、その前と比べるとずいぶん良くなった)まとめるのに、それなりに苦労したが、とにかくそれでもなんとか出来上がったのはよかったと思っている。また、今回からは、処理にコンピューターを導入したので、それについては従来より大分楽になった。

みずがめ座η群のまとめ

観測日時 1984年5月5日 01時30分〜03時30分
   同 6日 01時00分〜03時00分
観測地 黒川村胎内平(北緯38゜01’32.5”東緯139゜30’22”)
観測者 5/5 沼沢、本間、伊藤、鳥田、坂野、池田、板垣、伊藤 計8名
5/6 沼沢、本間、伊藤、池田、板垣、伊藤       計6名
輻射点 赤緯 -1.4゜赤経 336.8゜(流星観測ガイドブック)


有痕率 17.4%(5/5) 19.4%(5/6)
この群は前に村天で観測をやったことがある。しかし、その記録がどこへ行ってしまったのか、見つからないのは残念でしょうがない。それと言うのも、この群の母彗星が、かのハレー彗星と目されている為、このデータやこれ以前、以後のデータがかなりの意味を持っていると思うからである。
5日の用紙が一枚紛失したので、ちょっと残念だが気付いた事を上げると、黄色系統が多いこと、極大は5日の4時頃なのにそれを1日過ぎた6日でもZ,H,Rが極だった減少を見せないこと、全体的に継続時間が長いこと、速いこと、その他いろいろあるが大きく言うとこの位か・・・
 今年は極大日に月没帯食(つまり月食)があり、流星の方はあまり期待できないが、平行してやる必要もあると思う。なぜなら、あの大彗星が今年やって来るからである。

みずがめ座δ群のまとめ

観測日時・・・・1984年7月29日22時03分〜同30日02時00分
観測地・・・・・関川村大石ダム(北緯38゜02’04”東経139゜34’18”)
観測者・・・・・沼沢、室橋、沢渡、太田、小林、伊藤、鈴木、池田 計8名
輻射点・・・・・赤緯 -16゜ 赤経 339゜(天体観測年表)
 (注.総群数を除いてすべて平均値)
有痕率 7.6%
一口にみずがめδ群と言うが、この群は輻射点が複数であり、同定がさほど簡単で無いという話もある。性格としてこの群は、経路はそんなに長くない、やや速いが見た感じではそれほどでもない。H.Rは日本では10を越えることはない。北半球でより、南半球での観測が適しているなどである。これをほぼ鵜飲みにすれば、我々も同定の面で精度を向上させる必要があるのでは・・・
まあ、それはそれとして痕を持っているものが以外と少ないのには少しがっがりであった。ただ、そんなに速くないことが”流星”を感じさせてくれる群であろうと思ったし、時々、彩り豊かな流星が流れるのでそっちの方が私はおもしろかった。
今年は極大日が月齢12.5で観測はちょっと難しいが、できれば村天のレパートリーにいれたいなあと思っているし、そのへん身を入れてやろうと思っています。 

ひとり言
 こないだ、脇屋さんから”2001年”ビデオを借りて見ました。そこで思ったのですが、はたして、西暦2001年には、はたして”ディスカバリー号”を造れる科学力を我々人類は持てるのでしょうか?心配です。
その疑問を解消するためにも、みんなで”科学万博つくば”見に行きましょう。

ペルセウス座流星群のまとめ

観測日時・・・1984年8月4日02時10分〜03時42分
観測地・・・・黒川村胎内平(緯、経度については前記)
観測者・・・・沼沢、脇屋、沢渡、佐久間、太田、伊藤、鈴木、長、池田、宮原、松永、       伊藤、津野 計13名
輻射点・・・・赤緯 +55.4゜ 赤経 36.4゜(流星観測ガイドブック)

ペルセ群の観測で、極大期の10日近くも前にやったのは、今回が初めてだったのではと思う。この日は”やぎ座流星群”の極大前後でそのせいか、ペルセの出現率は約半分しかなかった。マイナス等級のものは約10%有痕率は10%を下回りあまり見ばえはしなかったようだ。また、Z.H.Rは前年の時の1/3しかなく、ペルセ群のいわゆる突発的出現がよくわかる。光度別では極大期よりも暗いものが多く、2等と3等が同数に近い。また、色別では圧倒的に白色系が多く、速度はやはり速いのもが多かった。


最後の”星空への招待”

脇屋奈々代
 8月1日夜、新潟のJPLより5台の車が、吾妻山へ向かって出発した。
今年で最後を迎える”星空への招待”に参加するのである。現地で、小俣さん、長君の2人が加わって、今年は総勢14人の大部隊となった。村天+αである。
 古俣さん、新天研から松永さん、貯金会館でプラネタリウムを担当されている宮原さんの3人が村天外から参加した。前夜祭は天気に恵まれ、たいへん美しい星がみられた・・との事である。実を言うと私は星を見た覚えがまるでないのだ、残念ながら・・・・。
反対によく覚えているのが、朝食の出来事だ。なにしろその朝食は、パンにワイン。デラックスというかなんというか、そうだ、聖書に出てくるような食事だ。食べていると、1人2人と人が食卓によって来る。それに、みんな予想外の食欲で、おかげで2日分の朝食を1回で食べ尽くしてしまい、次の日の朝食は、自分自身で稼ぐことになる。パン釣りに期待しよう。おっきなアンパン釣りたいなあ・・・・。
 雨はすぐあっがったが、午後からは雷雨となってしまって、それも次第にあがりはしたものの、夕方になって、84センチ・ドブソニアンは準備万端整っているのに、空はあいかわらず雲ばかり。9時頃だったと思う、沼沢氏はついに吾妻山撤退を決意、急拠場所を変えて胎内平で最後の観測を行う事とする。荷物をまとめて、さて帰ろうという時となって、なんと、雲が切れ始める。しかし、もう片づけてしまったのだ、今更もう一度荷物を広げるわけにはいかない。岡田さんらに別れの挨拶をしに行くと、せっかくだからと言って長蛇の列に並んだ人々をさしおいて、私達に先にドプソニアンを見せてくれた。これも沼沢氏の顔のききめかな?ドプソニアンで見て球状星団は凄かった。たぶんM13だったのだろう、何だったかはまるっきり覚えていないが、本当に球状に見えた。感動を胸に胎内平へ5台の車は急いだ。ところが、ドプソニアンの刺激が強すぎたのか、途中で2つのグループに車がはぐれてしまう。しかし、何回も吾妻山と村上を往復している、村天の強者が、両グループにいる。2つに別れたまま胎内平へ急ぐ。ところが、さすがシティー・ターボ、アクセルをグッと踏み込んだとたん、いとも軽々と百数十km/hか〜るく迷子の車を追い抜いて、止めることに成功した。いや〜面白いカーチェイスでした。ターボってすごいな〜と感激してしまった。
 その後は何事もなく胎内平に到着、はぐれてしまった車とも米沢で会ったし、一晩中星を楽しむ。
それにしても胎内平は暑かった。吾妻山は寒くて、ダウンにカイロだったというのに、ここ胎内平は、ダウンもいらないんだから・・・・
 薄明が始まってから、みんなで眠った。目が覚めた時朝日の強力な紫外線を浴びてみんな真っ黒になっていた。
 最後に、”星空への招待”はこれで終わりだという事ではりきっていたが、今になって思い出してみると、星を見た事よりも朝食の事や迷子事件などばかり思い出されてしまう。
星空も良かったけれど、それよりも、いろんな思い出が出来た事がとてもよかった。もう、楽しい思い出を作ってくれた”星空への招待”はない・・・。こんどは”胎内星まつり”でガンバロー!


’84 胎内星まつりにて

by H.SANO
昨年の胎内星まつりに、私は花輪氏と一緒になんとかO氏のCITYに乗せて行ってもらった。CITTYと言えば、TURBOを運転していたM氏が事故ったばかりだったので恐ろしかったが、これに乗らなければただでは行けない!命をかけて乗り込んだ。案の定、道を間違ったO氏はUターンをしようとしたらみごとに歩道にぶつかり後輪の泥はね防止のゴム板?(名前がわからん)がはずれてしまった。私は花輪氏(以下H氏と略す)と一緒に「CITYののろいだ〜!」とさわいでいました。といってもそんな大した事ではありませんが、まじめにこの日はCITYの事故が多かった。
そんなことがあったが、何とか胎内平に着いた。そしたら本部テントの組立て、看板をつるすなど、こき使われて昼食が食えなかった!やっと終わり胎内パークホテルに行くと、何と武田氏、野本氏、加藤氏は野球をしていたのである。(いか、T氏、N氏、K氏と略す)「何あそんでんだ〜。仕事せい」と言いたくなった。パークホテルで望遠鏡組立てが終わり会場に行き開会式、落語などがありましたがなんといっても望遠鏡部品オークション!この時一番得をしたのは私ではないでしょうか。何とカートンの赤道儀、モーターなどを1200円でせり落としてしまいました。そのためその後、まわりから冷たい視線でみられました。今年もあるそうなので乞うご期待!その後私とH氏、新天研の古川氏などとまじめに観測をしていました。ところで、あの3人組、何してんだろうか?と思って日の出になったのでホテルに行って見たら寝ているではありませんか。「何しにここまで来たんだ!!」と言いたくなりましたが、何しろまだ5時、寝ていたのでしかたなくその場にたおれ、寝てしまいました。その後、後かたずけ、H氏の飲んだビールの本数を数えたら何と15本。すごい!としか言いようがない。で最後に記念撮影楽しかったでした。
何しろこの後、受験勉強など色々なことがあり全体の様子などでなく、自分のことしか書けませんでしたが、とにかく満天の星の下で落語など聞ける。それに今年は2泊3日で昨年よりも充実していると思います。私は地学部の部員も連れてくる予定です。みなさんで胎内まつりに来ましょう。


野辺山にて

 やはり、何と言っても長かった。時間的にも、距離的にも。18.5km/lの車でも満タンでやっと。走行距離も関川村からでは700kmを越えた。たぶん、2日間で行ける限界の距離であったのだろう。とにかく疲れた。
 でも、行っただけの成果は確実にあったと私は思っている。
 最初は眠かったので何の感動もなかったが、場内を歩いているうちに段々と実感が沸いてきた。
 10m五素子干渉計の基線が、南北、東西に大体500mぐらいに延び、45m電波望遠鏡は、その基線の北の端にどど〜んと居座っている。また、東西の基線と平行に、その17基のうちの何基かであろう。太陽電波観測用160MHz干渉計群が、並んで立っていた。極度の遠近感を感じた。”45m”は、反対に、そのあまりの大きさに遠近感がつかめなくて、近寄ってもあまりピンとこなかったが、観測所から何百メートルか離れたあたり(畑の真ん中)から見ると、その大きさには驚いた。
 10m干渉計と45mは、共に全体が白く、場内の芝?や付近の山々の緑との対象が美しかった。160MHz干渉計は錆びたような赤茶けた色をしていたが、これもなぜか何となく他と対照的できれいだった。10m干渉計は、五基ともまっすぐ上を向いていた。たぶん何の観測もしてなかったのだろう。何度、よじ登って覗き込んでやろうと思ったかしれない。45mは縦横にかなり速いスピードで動いていたが、何をしていたのかわからなかった。
 閑散としたところが、その全体を、大自然に溶け込んだ天体観測所に感じさせ、特にそれが素敵だったのは述べるまでもない。
(F. i t o)


マイコンで描くGALAXY

内山 信一
 「SKY WATCHER」誌の1984年1月号にでていた渦巻き星雲を描くプログラムを自分なりにいじってRUNしてみたのでリストと出力結果を別紙に示す。
 尚、使用機種は、IBM5550マルチステーション、言語は当然のことながらBASICである。
 この機種は、グラフィックだと、プリンタを通してハードコピーをとることができない(本当はできるんだろうがやりかたがわからない。)ので、いったんスクリーンに描かせて、それをページ印刷してハードコピーをとった。
 しかも、単色モードしか使えないのでモノクロのさえないものとなってしまった。そのうえ、白黒が反転しており、みてすぐにそれとわかる人は少ないと思う。だが、さすがにドットは細かく、1040*740ドットがハガキ一枚のスペースにある。プログラムは、100〜220の背景と230以下の渦巻きの部分に分かれる。入力値はR=300、M=0.95、P=25、XX=510、YY=320で行った。(と思う)背景の星は、PSETステートメントで点を打つだけでなくLINEステートメントで線を引き、より星らしくした。ただ、この場合、PSETステートメントはなくても支障はないのだが・・・・・
 大きな星を描くに当たっては、オリジナルにならって、CIRCLEで描いた円をPEINTで塗りつぶそうとしたが、なぜかエラーばかりでてしまい、しかたなく円を小さくして、塗らなくてもさしつかえないようにした。
 300〜330の行については、自分にとってはまったくのブラックボックスで、説明不能である。そして、XPとYPに点を打って、渦巻きを描くわけだが、XPとYPだけではどうしても点が少なく迫力がない。そのために370〜490を使って、XP,YPを中心にランダムに(といっても渦巻きを構成しているところも十字になっているが)点を打つようにしたわけだ。
 今後の課題としては、渦巻きと、背景の境界を、もっとぼんやりすると、何個も渦巻きを描いたり、カラーグラフィックモードに対応したものに(これは、ハードがなければどうにでもなるものではないが)していきたい。


アストロカメラの制作

沼澤 茂美
 昨年ペンタックスからセミ判カメラペンタックスM645が発売されましたが、J.P.Lではフィールド用及び原画接写用にさっそく購入しました。注目すべき事は、同時に開発された300mmF4EDレンズです。星野を撮ってみるとその像はおそろしくシャープ。その使い勝手を考えると、16cmシュミットを使う気が失せてしまいます。できるだけ広いフィールドを撮るためいま、6×9のカットフィルムが使えるような、カメラボディを作っているところです。主にマミヤプレス用部品を使っています。
・レンズ取付はリバースアダプター等でOK
・レンズの三脚アダプター(何とこのレンズ用には作られていない)は、望遠鏡用のアクセサリーバンドを利用
・スケアリングは沼垂高校の阿部先生にディップスゲージをお借りしてだいたいOK
・問題はフィルムの平面性、粘着シールによる接着方をはじめ、いくつかテストしましたが結局6ヶあるすべてのホルダーを吸引式にしました。
300EDのイメージサークルは、ケラレなどがあってもΦ13゜はとれ、しかも、はしまでシャープな点像をむすびます。6×9のカットフィルム用にしたもう1つの由は4×5のTP2415フィルムを使えることにあり、H2増感して用いれば、このレンズとの組み合わせで長焦点鏡(2倍以上)に勝る成果が得られるでしょう。その分、シーイングの影響も大きくなり、少しのガイドミスも許されません。下の写真の通りです。
300mmF4 EDIFを用い、TP2415H2増感(4×5シートフィルムを6×9カット)フィルムによるテスト約35倍に拡大してトリミング、さくらDP-PC印画紙にプリント、ピントはまだ追い込める。


個人的に1984年を振り返ってみて

 本職の癖がついたのか、何か行事があったりすると、後になってから客観的にまたは主観的に全体を振り返ってみる傾向が出てくるようになった。でも、いちいちそれを記録しておくようなことはしないで、今となってはさっぱり思い出せない。
 今年は4月から、5月にみずがめ座η群、7〜8月にはみずがめ座δ群、星空への招待、ペルセ、そして胎内まつり、9月に野辺山ツアーと、たった半年でかなりの行事を消化してきた。これは近年になかったことであり、自分でもビックリしている。(ただ、流星群をとれば、まだ眼視のまとめができてないので、消化とは言えないかも。)
 振り返ってみると、第一に、やはりおもしろくなかったことがある。そう、胎内星まつりだ。私は半分参加してなかったのでなおさらだが、自覚が足りないとか言われるには
はっきり言って不条理である。また、事前に自分の役目の意味を考えなかった私も馬鹿だったのだろう。今年は特にこの事がひっかかっておもしろくない。でも、来年もやるなら今年とはひと味違うところを見せてやりたいのもだ。しかし、それにつけても今年は晴れて良かった。
 流星観測は、どれをとっても村天らしさが出ていておもしろかったが、眼視では今一つ統制がとれていなかった。誰が悪かったのだろう?大体のペルセの条件が悪かったせいか、写真も眼視も盛り上がりに欠けたのが残念だった。来年は果たして・・・・?
 今年が最後だったのだろう”星空への招待”大衆的で優等生的になってしまったこの一大行事に村天は馴染めず、2日目の夜には帰ってきて、極大の10日も前からペルセをやっていたところが、なぜか素敵だった。
 そして野辺山ツアー。ツアーといえるかどうかの強行軍7名。700km/20hの過激な行程で感じたのは、緑と白のコントラストと、超人的な沼沢大先生の気力と体力でした。
 たぶん、1985年も沢山行事があるだろう。広い広い宇宙、いつ、何が起こるか分かったものではない。だからせめて、気力いっぱいの村天で行こうじゃないですか!

(F.Ito)


近況報告だよ〜

わすれられないあなた、もうわすれつつある君たちは今
 凍り付くような寒さの中、ふと空を見ると雪国にはめずらしく広がった晴れ間に宝石箱をひっくり返したような星空。「おい、”県民の森”行こうぜ」と一言。
コンパの後ではあるが家へ帰るため酒を飲まなかった奴がいる。
「k(そいつの名と思って)女の子早く送って、もう一度戻って来いや。」
ここしばらく星空をゆっくり見てない。10月くらいまでは、空がきれいだと思うと双眼鏡をかつぎ、愛車ファミリアで”県民の森”だ”西蔵王”だと山形市の星見のメッカを渡り歩いたのに。寒さと雪と、そして卒論といpressureがそれを許さない。なんか此の頃無気力になっている。一日中寝ていたい。肉体的にも精神的にもひどく疲れきっている。毎日、8時迄に大学に行って18〜24時頃帰る。時々、ボーリングやコンパして。
この日は、1月30日私の誕生日、十数人集まって ワイワイ、ガヤガヤと飲んだ後のこと。本当に私のお祝いのために来てくれた人間というのは、ほとんどいないんじゃないかな、酒飲む理由が欲しいんだ、みんな!
1月31日、午前1時頃、いざ”県民の森”へ。山形市の西の小高い山の上にある現地へ、凍結路面を車を滑らしながら車は登る。
「うわあ〜すっごい星空だあ〜。」「でも寒いぞお〜。」
ただでさえ気温の低い山形市、星空の広がる日は特に冷える。でもきれいだった。
「ひっさしぶりの星空だなあ〜。」「もう春の星空なんだ。」「あと何回ここで星なんか見れっかなあ〜」「これが最後かもなあ〜」
そうか、3月で卒業なんだ。なんて短い大学生活だったのだろう。
「うう〜寒っ。そろそろもどろっか。」
30分ほど星空を見つめ、帰路へ。しかし、ちょっとより道車は脇道へ入った。この間、私の車で来た時は、カウンターをあてっぱなしで登ってきた道も、今回は路面状態も良くスイスイ登る。上まで行ってU ターンしてきて途中で車止めて山形市街を見る。
「かあ〜んどお〜」何度となく見ている山形の夜景。気流の不安定なこの日、街の灯がチラチラとゆれそれがかえって美しい。そして空には、街の灯と競争しているような星の輝き。「きれえ〜だあ〜」「本当にユラユラゆれで、かえってそれがいなあ〜。」「うん!この間よりずっといいな〜」しかし、男ばかりで夜景や星空、なんともむなしい仲間達である。「これが最後かなあ、山形の夜景も」「来年からも時々見に来たいなあ〜。」
まだ、就職も決まらずイライラ半分あきらめて中学理科の教育の採用通知を待つ。採用があろうがなかろうが、4月からは新潟県民、山形まで3時間か。そんなことより卒論だ。2月18日の化学科卒論発表会、それまで発表できるようになんのかなあ。液クロ(私の使用している機械)が、時々 ダダこねてうまくいかない。先生は、別に卒業してくれなくてもいい、と甘く恐ろしい言葉を私にくれる。
なんか、暗〜い文章で近況を書いてしまった。でも実際はハシャギまわり、明るく卒論と取り組んでいるんですよお。では、2月1日記す。乱筆乱文にて失礼  菅原 昭彦
p.s 会費もう少し待ってくれ


 初めて原稿を書きます。専門的なことは何も書けませんので心に浮かぶよしなし事を、ずらずらと書きたいと思います。
 私が本格的に(?)村天の活動に参加したのは、5/5極大の水瓶座η流星群の観測のときでした。このとき星座がちっとも分からなくて、恥ずかしかったのと、困ってしまったことで気が動転してしまいました。何が何だかちっとも観測鋸とは覚えてませんが、寒くて寒くてどーしょうもなくて、眠ってしまったことと月が(三日月か、そのあたりだったと思います。)とても赤かったのを、良く覚えています。2日目の帰りの車中、霧の深さに感動・・・というより、物珍しくて見とれてました。
昨年の活動の中で、一番よかったと思っているのが、7月の大石ダムでの水瓶座δ流星群の観測です。もう、5月に経験済みですから、観測手順に戸惑うことも無かったし、5月より星座をちびっとだけ多く知っていたので割とリラックスしていました。5月は、何か緊張していて流れる星がみんな私をもて遊んでいるように感じたのです。又、このときは、蚊に悩まされてしまって、眠るどころではなかったことも観測する私に幸いしたのかもしれません。まあ、実のところ何十分か眠ってしまったのですけど・・・・
待ちに待った”星座への招待”の3日間。うきうきしていて高山のよるがどんなだかも深く考えず、素足にスカートをはいていったのが、ケチのつきはじめでした。はっきし言って、覚えていることと言えば、ロス五輪の具し堅優勝、カミナリ、どしゃぶり、お釜に登ったこと、農協ごはん、etc・・・とあまり星とは関係の無いことばかりです。でも、84cmで見た、何とか言う球状星団はよかったし、5日未明、胎内平で私の受け持った”くじら座”も印象深くてよかったです。なにせ、初めてくじら座を知ったのですから。1kgも体重が減らなかったのが非常に残念でした。
 月明で流星などほとんど見えなかったペルセも私にとっては、記憶に鮮明です。丁度前日にバイクが届いて初めて自力で活動に参加したのですから。2日間で、青あざをあちこちに付けてフロントフォークを曲げ、ウィンカーを割り、ギアペダルも曲げてしまいましたが、観測に行くのがうれしくて仕方のない時でした。そして今。
私が、天文同好会に入っていることを知っている人達はまれに星がでていると、指さして数えてくれます。それが、何故かいつもオリオン座なので、私はこの冬オリオン以外の星座を見ないで過ごしてしまうかもせれません。
毎日 こたつねこになっている 池田からでした。


 
 私は、現在印刷屋さんみたいなとこで、カラオケのパッケージや、○裏(?)ビデオのデザイン(パッケージ)などをやっています。
 それがまたすごくって文字ではとても書けません(絵でも描けない)で、ここでやめます。(斉藤 美穂子)

突然ですが、太田です。

太田 栄
 突然ですが、太田です。23才になりましたが、いまだ学生(=遊び人)をやっております。毎日、酒ばかり飲んで生きています。(もうほとんどアル中の世界)。
 順当なら、来年の3月で卒業のはずなのですが・・・・・・出来ません。(何故でしょうか?理由は各人、勝手に解釈して下さい)
 ではここで問題です。私が卒業(含、中途退学)出来るのは、いつでしょうか? end



 新潟に出てきて半年。肉体労働者なもので、足が太くなる、力が付いてくる、ほとんどヤセないという恐怖の三段攻撃に耐える日々です。
 TVもない、電話もない一人暮らし。ラジオは必需品です。最近はクロスワードパズルに凝っています。あとは殊更言うことも・・
 そうそう、先日「ゴジラ」を見ました。一体何ですか、あれは!!今の時代に、あれほどの駄作を作れる人がいるとは世の中捨てたもんじゃないぜ。観ながら私は何度座席に沈んだであろう。「マクロス」見た時も駄作だと思ったが、こいつは駄作なんて代物じゃない。見る者に毒になる作品だ、うん。つくづく、タダ券で良かったと思う。
 こっちに来てから満足に夜空を見ることがない。職場には「天の川は七夕にしか見えない」と思ってた人がいた。ほとんど信じがたい人だ・・きっと七夕にしか上を見たことがないのだろう。(今年22才の青年である、彼は)
(記.S.60.2.4 板垣和嘉子)



原稿の依頼もありましたが、あれこれと忙しくPENを取れずしてしまいました。2/3〜6にかけては妙高の赤倉の方にスキーに行ってまして北天のことなど忘れておりました。スイマセン。近況を一言申せば
今年はハレーの到来ということで、僕もただではいられないという心境になりTelescopeを家から送ってもらい、一応、観測体制だけはできております。but送ってもらったとう初はカメラアダプターとかミューフィルターとかカメラの修理だとか計画はふくらんだのですが・・・。一度ためしに月を見たとたん夢は破れました。空がこんなに汚れているは・・
知らなかった。ひどいんです。田舎だと5cm双眼鏡で見た像よりひどい。ミューフィルターを購入する以前にやる気をなくしてしまった。田舎ならまだこうゆう場合こちらがやる気が無くても強引にやってしまう奴がいるとつい一緒にやってしまうのだが、こちらには仲間がいないのでそれっきりになってしまい今となってはmy Telescope は単なる場所をとる(部屋の面積がせまくなる)飾り物と化してしまった。
 それでも、一応救いはあった。窓からの覗きである。というのはJOKEであるが、この前、オリオン大星雲を見たとき結構良く見えた。金星もなかなかでした。これから、やる気を盛り上げ、写真観測まではいかなくとも眼視でぜひ一度ハレーを見るぞ。絶対見るぞ・
・・と思っているしだいです。以上この頃 千代田区九段南1-4-6-601の住人でした。



 どうも皆さん、御久しぶりです。鈴木龍雄でございます。自分は今、米沢で大学生をしています。今度、運良く4月から4年生になれる予定(決定ではない)です。今年は人生の半分が決定してしまう勝負の年です。どこか良い就職先があったら教えて下さい。
 さて、私は米沢では天文活動というのはまったくしておりません。というのも山に行かないと光害があるので写真も撮れずかといって山に行くと寒いからです。何と怠慢な事でしょう。
 4月からしばらくは週休数日制になると思われるので、何かある時は呼んで下さい行きます。 つい最近まで、週に数日作業服で大学に行ってましたが、やっとそれから解放されました。
 これから、就職活動で新潟・東京などに行くこともあると思いますが、その時は宜しくお願いします。遊んでやって下さい。
 
 沼澤、沢渡、本間、タツオの4名で1月3〜4日と蔵王合宿に出かけた。あいにくの天候で
”しぶんぎ”群を望むことは出来ず、スキーにあけくれました。

 久しぶりに原稿を書く本間です。
本間 康之
社会人になって早3年、土方生活にも慣れ、立派な現場監督を目指し、悪戦苦闘しています。月に1、2回JPL通いをして暇をつぶしている今日此の頃です。
 今日も、不死男と2人で、昨晩から泊まり込み、徹夜で会報制作の為、6人(沼澤、脇屋、太田、伊藤、佐野、本間)で、頭を悩ませています。
この会報が皆さんのお手元に届く頃には、数名が睡眠不足と飢えでいなくなっているでしょう。


JPLだより

by 脇屋
 6月1日でJPLは開業1周年を迎えました。その間に、CD,ペンタックス645、PC-9801m2とJPLの機材はみるみるうちに増えてゆき、最近、事務所に来た人はよくご存知のように、3LDKの部屋も狭く感じられる今日この頃です。
 勿論、仕事の方も!今年に入ってからいうもの、絶え間なく五籐光学からの仕事の依頼が来るのに加えて、県内の仕事もなぜかコロコロとこらがりこんで来て、大忙しです。沼澤氏は、もう、天文屋の本領発揮して、夜から朝まで仕事づめ、但し・・・なぜか昼間は、好きなことをしているみたいですが・・・・
 みなさんも知らず知らずのうちに沼澤氏の絵を見ているのではありませんか?
この号の表紙の絵は、なんと、あの筑波万博のソ連館で記念メダル用の「たて」に使われているもの。それに、新潟の鉄道博のポスター、見かけたことがあるでしょう?あのロコモーション号の絵も沼澤氏の作品なんです。
 その他にも、東芝のパンフレットにも使われていたり、本人も全く知らないところで使われていたりなんかしていますから、みなさんも、いろんな所に目をくばってみて下さい。
見慣れた、あのサインが隅っこの方にくっついていたら、沼澤氏の作品です。
JPL開設時から使用しているミノルタのコピーEP450Z。縮小、拡大が4桁の倍率セットで可能。つまり×1.420〜×0.640までの正確な可変が出来る。イラストの下書きやレイアウト、台本コピーそれにD.Mや会報制作に活躍している。
最近入れた、NECの9801m2と日本語シリアルプリンタPC-PR201で、会報作りが一変した。ワープロソフトは「松」をしよう。でも、ワープロの字の嫌いな人もいますね。私も同感(N)
久々晴れた5月5日月食
 5月5日の早朝の月食は、関東地方が悪天候で観測できなかったのに対し、新潟では、
少々風が強かったものの薄明の中に月が消えるまで観測できた。
観測は自然科学館の屋上で行われ、当日は、NHK,NT21,TNNが取材に駆けつけて来た。今回の観測では、ビデオカメラが大活躍。連続撮影も大成功だった。


村上天文同好会会員名簿



元会員の方からの要望で住所は削除いたしました
関係する問い合わせは
muraten@jplnet.comまで

1985/4・現在
平山  浩
沼澤 茂美
沢渡智恵美
太田  栄
小島 和浩
内山 信一
広瀬 美幸
瀬賀千恵美
小谷加津子
本間 康之
伊藤富士夫
菅原 昭彦
松田  隆
佐藤 啓明
須釜サチ子
 田 裕子
佐藤 一彦
長  良樹
鈴木 龍雄
野沢 清子
斉藤美穂子
丸山由美子
板垣和歌子
池田 千春
坂野 照美
室橋  正
脇屋奈々代
堀田  了
佐藤 秀和
神蔵 秀一
佐野 秀雄
花輪 博司
角家 俊彦
川崎 裕司
宮原 昭夫
勝木キヨ子


事務局だより
★京都の小谷(旧姓西野)さんが今年春、無事2人目出産。おめでとうございます。
★何と佐久間さんが、3月10日に結婚しました。広瀬さんと変わったのでまちがえないように。
★何と三田村さんも昨年暮れに結婚しました。残念ながら退会されるそうで残念です。それに、平山邦子さんも退会されるそうで、御二人の今後の御多幸をお祈り申し上げます。
★今まで特別会員のみなさんも、全員正会員です。おっと、会費未納の方は、早く払って下さい。お金がなくて会報が作れません。

今日中に会報を仕上げるから、原稿を2つ書けと言われて、あわてて書いた。何しろ1つは、約1年も前の”星空への招待”についてである。もう、ほとんど忘れかけていた。その割には、長くなってしまったような・・・・(奈々代)
もうすぐ時計はpm11時を回ります。今日、pm3時頃から延々8時間、総勢6名、やっと会報制作はその終末をむかえるのであった。思えば原稿催促の葉書を書いたのが、1月あれから早5ヶ月会報はやっと、その勇姿を表すのであった。バンザーイ!(本間)
タダメシにありつけるのではないかと、フラフラやってきたのがお昼過ぎでした。夕方には帰るつもりだったのに会報作りを手伝わされ、時計はもうすぐ12時です。早く帰ってひゃっこいビールがのみたいよ〜。(太田)
半年近くもちんたらやっていた会報制作を、たったの半日で完成させた機動力は、久々に村天だった。思うに、編集の持ちまわり制はやらない方がいいんじゃないかと思っている。今は・・・・会報が完成するのは、たぶん2時頃だろう。家に帰ればもう朝だろう。それから、また肉体労働歌か思うと気が重い。とにかくみんな会費を払え(伊藤)
忙しくて物理的に不可能な日が続いたので、会報は当分無理かと考えていました。本当は今日も作る予定はなかったのです。が、どうしてか出来そうです。今回は、僕はあんまり手を出さずにすみました。みんな熱気につつまれて作っています。今回からワープロの文字が入ってきました。どうでしょうね。好き嫌いはあるでしょうが・・・・(沼澤)
1985.6.9 JPLにて


北天インデックス(画像あり)(画像無し)

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