これでいいのか金融ビッグバン

 日本国中、「規制緩和」の大合唱である。その一環として、長引く不況の打開策としてひときわ脚光を浴び、期待される金融ビッグバン――。しかし、本当にそれは、起死回生の妙手となりうるのだろうか。


1.金融ビッグバンは本当に救世主となりうるか?

 日本中の誰もが、「もはやこの不況を脱するには規制緩和を本格化するしかない」と考えている。その中で、とりわけ金融システムについて、さらなる規制排除の切り札として、国民の期待を一身に集めているのが「日本版ビッグバン(金融ビッグバン)」である。

 とまあ、いささか意図的な書き出しになって申し訳ない。このページに来た方であれば、まずこんなことは思っていないはずである。しかし、世のマスコミはいまだこの論調を脱しきっていないのは事実である。したがって、マスコミ、つまり「世論」の代弁者を自称する機関は、上記の前提でものごとを書くということをまず押さえてほしい。その上で、初めて我々の主張の方向も見えてくるというものだろう。

 さて、ここで冷静に「金融ビッグバン」が、起死回生の妙薬、日本経済の救世主となりうるか考えてみよう。

2.金融ビッグバンとは

 まず「金融ビッグバン」の本質を考えてみよう。「金融ビッグバン」の「ビッグバン」は、英国の証券市場において行なわれた市場活性化策から由来することは周知として、今ひとつのたとえを言うならば、日本版「金融ビッグバン」の「ビッグバン」は、ビッグバン・ベイダーのビッグバンなのである。

 かつて新日本プロレスの看板外人として、ビッグバン・ベイダーというレスラーが活躍していた。今はアメリカマットの人となってしまったが、一頃、主力外人として新日本マットを支え、また、Uインターに移籍してから高田延彦の好敵手としてその名を馳せた。このレスラーの特徴であるが、その巨体を生かしたパワーあふれるファイトで、向かってくる敵をバッタバッタとなぎ倒すたたかいぶりがあげられよう。そしてリングの上には彼しか残っていない――。そう、圧倒的な強さを印象づけたものである。

 日本版ビッグバンも、実はこれと同じなのである。強いものは残れ。敗者はリングを去れ――これがビッグバンの本質なのである。ビッグバン・ベイダーは、実は必ずしも常勝というわけではなかった。それは、ルールの制約があったからである。もしプロレスが、世間一般に誤解されているように「ルールなき喧嘩」であったならば、藤波辰巳や武藤敬司が彼と互角に闘うことはまず不可能であろう。ルールの制約があればこそ、体力的にベイダーに敵しえない選手が彼に対抗できるのである。この、ルールの制約を取っ払い、「自由競争」の名のもとに、ヘビー級もジュニアヘビー級も同じリングで闘え、というのが「金融ビッグバン」なのである。したがって、これが完了した時、リングの上に立っているのはビッグバン・ベイダーだけ、これがほんとの金融ビッグバン――というのが「金融ビッグバン」のオチである。

3.公正取引委員会の機能

 ここで少し話がかわるが、公正取引委員会(以下「公取委」という)の、特に最近の機能について考えてみよう。

 私の感覚では、どうも独占3形態のうち「カルテル・トラスト・コンツェルン」のうち、カルテル以外の独占を推奨する機関のように思えてならない(ここでいう「独占」は、無論「寡占」も含む)。要は、「価格」については、そこにいかなる理由があろうともこれを一切認めず、その一方で「競争力強化」という名で政府が盛んに進めようとしている合併や金融持ち株会社(これって完全にコンツェルンだよなー)といった「再編」にお墨付きを与えているのだ。

 「価格でニギるのはダメ。でも少数社で市場を支配するのはオッケーよ」――これが公取委の最近のスタンスである。

4.寡占化の帰結

 さて、では寡占化が何をもたらすのか、ここで考えてみよう。

 政府のすすめる「再編」という名の寡占化政策の大義名分は、「国際競争力」である。国際化時代に際して、金融機関はごく一握りの、国際競争に耐えうるものだけで充分であり、あとはいらないというわけである(詳しい分析は何人かの学者が全損保の各集会・学習会をはじめいろいろな場の講演でしてくれるので、ここでは結論だけを書くとこうなる)。そして、金融で言えば都銀・長信銀・地銀・信託・信金・信組さらに証券・生保・損保といった各機関のそれぞれが並立することで果たして来た役割については、「過去の遺物」として葬り去る――。

 これにより生じることの第一は、「消費者利便」の喪失である。金融ビッグバンを消費者利便の向上と位置づける政府・マスコミの論調とは真っ向から対立するが、事実としてはそうなのである。「選択の幅の広がり」「銀行で保険も買える」といったことがよく言われる。しかし、本当にそうなのか、あるいは本当に利便性の向上につながるのかといったことを考えてみる必要がある。まず、「選択の幅の広がり」であるが、これは近視眼的に見れば確かにそうかもしれないが、中長期的に見れば、実際には寡占化がすすめばあっという間に帳消しになってしまう。そして、市場制覇を成し遂げた企業により提示される独占価格により、(自動車保険で言えば)目をむくような高額の保険料か無保険で車を転がすかの「究極の選択」を消費者は強いられることになるのである。むかし「究極の選択」という本(深夜ラジオあたりでこういう番組があったのかもしれない)に「ウンコ味のカレーかカレー味のウンコ」という投稿があったのを見て、非常に気分が悪くなった覚えがあるが、国民にウンコ味のカレーを食わせようというのが寡占化の本質なのである。これは全産業共通だ。要は、選択の幅はむしろ狭まるといってよい。そして「銀行でも保険が買える」であるが、これはもっと単純である。だれが八百屋で肉が買えて「利便性が高まった」と思うだろうか。消費者は、野菜がほしければ八百屋、肉がほしければ肉屋、魚がほしければ魚屋に行くのである。なんでもそろえているスーパーマーケットの人気は確かに絶大なものがあるが、味にこだわる人は専門店に行く。スーパーマーケットの存在はこだわり派のためにこうした専門店の存続を確保することが前提であり、その法的基盤が大店法である。しかし金融でそれができるのか――。高度専門的業務知識を要求される金融業で、スーパーと専門店の並立は難しいと考えられる。例えば銀行業務と保険業務(その中でも生保と損保は全然違う)では、あまりに内容が違いすぎるため、保険会社がきめ細かいサービス提供をすれば、銀行ではたちうちできない。そこで、「平等化」のために保険会社を縛る。そこで都市銀行は巨大な体力を利して保険市場に殴り込み、保険会社を淘汰していくのである。つまり、どちらかをつぶさなければ所詮ビッグバンなど成り立たないのである。

 第二は、大規模なリストラによる景気悪化へのさらなる拍車である。大蔵省(金融監督庁かな)は、金融機関の本来業務よりもリストラ実施の指導に熱心なようであるが、ビッグバンがすすむとさらにリストラがすすむ。これは当然で、金融機関の数が減れば、労働者も必要がなくなる。企業淘汰は必ず雇用の減少=失業を伴うのである。現在の長期不況の最大の原因は消費力の低迷であり、その大きな原因を作っているのが、各企業のリストラによる所得減である。そして、所得減の最も強烈なやつが失業だ。また、失業に至らずとも、こうした雇用市場の相対優位をバックに、企業は引き続き企業内にとどまった労働者に対しても処遇切り下げを必ずやってくる。こうして、「切り捨て+単価下げ」で、労働者全体の所得はますます下がっていく。「金融」全体の労働者となると、その数も膨大であり、国民経済全体に与える影響も無視できまい。ひょっとしたら、「金融発世界恐慌」が起こったりして。

 第三は、いささか被害妄想気味に思われるかもしれないが、国際緊張・摩擦の増大による戦争の危機である。これだけ読むと飛躍があると感じる人が大多数であろう。しかし、「国際競争」を前提にビッグバンをすすめ、淘汰すなわち代表選手を決定する――そこで選ばれた選手はもはや敗れることは許されず、国そのものといってよい存在となり、国を挙げてバックアップすることとなる。すなわち経済戦争だ。国際競争の場でも、力の差はやはりあり、いくら「負けない体力」を競争(あるいは寡占政策)でつけて来たといっても、他国の代表も同じことをやっており、必ず勝てるという保証はない。そこで必ず起きるのがルールへのいちゃもん合戦である。マージャンで言えば、「ありあり」か「なしなし」かの争いのようなものである。私のように引きの強さで勝負するタイプにとっては、テクニックで勝負するタイプのメンツがポン・チーでかき回されることが最もいやなので「なしなし」ルールの方が有利である。そこでテクニシャンとの間で「ありあり」か「なしなし」かの論争が起こるわけである。国際競争時代においては「ルールがないのがルール」と思われているが、実はこんなことはどだい無理なのであり、どうしても一定のルールは必要になってくる。そして、その統一はきわめて難しい。そして、劣勢となった国からは暫定ルールへのクレームがつき、それが入れられなければ「おれ抜ける」となり、その国が支配している経済圏の囲い込み、すなわちブロック経済化、というシナリオになる。そして囲い込みに遅れた国は今度は武力で強引に割り込んでいく――これがまさに第二次世界大戦の勃発のメカニズムである。あくまでビッグバン、さらにその先の国際競争がすすんだ後の究極的に行きつく先であり、直接ビッグバンに起因するとも言えないが、決して妄想ではないのである。蛇足になるが、ルールについて一言いえば、アメリカという国は(別にアメリカ国民や文化を見下そうというのではない)、国際ルールということに関して非常に身勝手な国である。その端的な例は、猪木−アリ戦である。当時異種格闘技戦をウリにしていた猪木が、莫大な費用をかけて実現したアリ戦だったが、この試合は観客にとって大いに不満の残る凡戦となった。終始マットに寝転びローキックだけを出す猪木と、うろうろするだけのアリ――。しかし、これには理由があった。事前のルール協議で、アリ側はなんと「タックル禁止」を主張したのである。これでは猪木は立って闘えない。自分の有利なようにルールをも変えてしまう――アメリカの身勝手さは、こういうところにも現われているような気がしてならない。

5.ではどうすればいいのか

 それではいったい、どうすればいいのか――。この答は、実は私にも出ていない。

 この続きは、「これでいいのか金融ビッグバン11・24大集会」で一緒に考えるとしようではありませんか!

 ということで、オチがついたところでおしまいにしましょう。


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