私の太田裕美観〜善くも悪しくも太田裕美
時が過ぎれば、人はみな変わるもの…。
私も、太田裕美に熱をあげた少〜青年期の純粋さを相当失ったようである。
最近、どうしても『ごきげんいかが』を『お久しぶりね』と思ってしまうのだ。また、最近発売されたCD『魂のピリオド』は、なぜか『リングの魂』と間違えてしまう…。
そんな自分に、どこまで太田裕美論が展開できるか、不安ではあるが、まずははじめてみよう。
序論:公式サイトにおけるある軋轢について
先日、公式サイトのメッセージボードを見ていたら、「太田裕美は優しいか」についてちょっとした論を展開している人が数人いた。よく見ると、「太田裕美は意地悪そうだから嫌い」という書き込みをめぐって数人がこのメッセージを非難しているといったものだった。まあ、タレントの公式ページにこんなことを書くなんてどうかしている(「だったらこんなところに来るなよ」と思ってしまう)が、「私は太田裕美は優しい人だと信じる」と言い切っている(少なくともニュアンスはこんな感じだった)人がいたのには、少し感覚が遠いなと感じた。太田裕美に限らず、そもそもタレント一般は、情緒的に言えばファンにとってユングでいうアニマであり、唯物的にいえば太田裕美その人を中心とする、周囲のスタッフ達も含めたメンバーがプロデュースする、ひとつのイメージ商品に過ぎない。タレント本人の人格などプライベートな部分にまで「こうあってほしい」と注文をつけるのはいささかお門違いなのである。つまり、太田裕美本人の人となりがどうかなど、1ファンにとってはまったく関係ないことなのである。ファンがここに抱いたイメージが美しいものであれば、それだけで充分なのである。序論として、あえてこの話を持って来たのは、以上のことが私のスタンドポイントを如実に表していると思ったからである。
中途半端の魅力
太田裕美は、いろいろな意味で、非常に中途半端な歌手である。そして、それがまた、なんとも言えない彼女の魅力になっている。じつに不思議な存在であるといえる。
まず、歌唱力だが、彼女の活躍した時期のアイドル系とは一線を画していたものの、「実力派」としてやっていくにはいささか力不足であった。一方、ルックスについて言えば、私は客観的には決して美人とは思わないが、「可愛い」というタイプではあろう。『Feelin' Summer』のジャケットなどをみていると、「可愛い」という言葉は、この人のためにあるのではないかという気さえしてくる。しかしながら、アイドルとしてはやや派手さに欠ける。
また、「うぐいす商会」氏のホームページに、「セクシーショットはないのか」という質問があったが、ズバリ言って、若い頃からそのテの対象としては、最も不向きなタレントだったと言って過言ではあるまい。胸もそんなに大きくないし、小柄(「中肉中背」という説もあったが、身長154cmといえば、今時の常識では小柄というべきだろう)で安産型の、典型的日本人体型ということもあるが、何よりもそういう雰囲気がそぐわないのである。一般のアイドル系女性歌手のファンがそうするように(これは偏見かもしれないが、私はそう信じている)、彼女を常時オカズにしていた人は、まずいないはずである。
要は、アイドルでも実力派でもましてやセクシータレントでもない存在、それが太田裕美なのである。公式サイトで、「アイドル」論争があったが、どちらの言い分も頷けるものがあった。かく言う私は、昔は「太田裕美はアイドル」というくくり方を人がするのを極端にいやがった。「単なるアイドルとは一味違うんだ」と思いたかったのである。当時アイドル蔑視の風潮があったという時代背景もあろう。今冷静に考えられるようになると、彼女を「アイドル」とする人がいても悪い気はしない。「へえ、そうなんだ。そうすると、俺の趣味もまんざらではないということか」という感想である。かつて太田裕美ファンと言ったところ「趣味が悪い」と友人から言われショックを受けたことがあるのだ。まあ、ある投書にあった「太田裕美は太田裕美、それ以外の何者でもない」というのが、最も的を得ている表現であろうか。
太田裕美という人は、不思議な歌手である。同期デビューの歌手と比べても(演歌界の大物となってしまった細川たかし大先生は別格として除く)、歌唱力では岩崎宏美、容姿では片平なぎさに、それぞれ一歩を譲る。しかし、デビュー後2〜3年の間に化物ヒットを飛ばしたのは、太田裕美だけなのである。「木綿のハンカチーフ」(モメハン)が、プロデュース史上に残る大傑作で、時代に乗ったということもあるが、爆発するだけの潜在的なものがあったのは確かである。
では何が彼女の魅力なのか。それは多くの人が指摘しているように、声であろう。歌声はもちろん、話す声も、聞く者を魅了する。とにかく可愛いのだ。「うぐいす」氏は、『まごころ』の7曲目「優しさを下さい」を、赤面もの・彼女と二人でいる時に聴いたら人格を疑われること必至と述べている(それはそのとおりだろう)が、あの曲の最後の「好きよ」を一人で聴いて、ニターッとしていた人は多いだろう。大体、ファンになる人は、声に魅了され、それから彼女の顔を見たという人がほとんどと思われる。私も、声からファンになった。テレビで初めて見た時は、イメージとなにか違う気がしたものだ。私の場合、どういうわけか当時、実力派でテレビには出ないタイプと思い込んでいた。したがって、印象としては、「思っていたよりきれい」というものだった。そうなると必然、ルックス的にも自分の理想だと決めつけてしまう。さきほど、「客観的には美人と思わない」と書いたのは、主観的にはルックスも含めて彼女が理想だからである。
太田裕美は3人(4人)いた!?
太田裕美は「雨だれ」に尽きる、という趣旨のことを依然うぐいす氏のHPに投稿したことがある。私は「雨だれ」時代も、「モメハン」以降も、テクノポップ時代も、それぞれによさを見出してしまうという、「無節操ヒロミスト」であるが、この変遷における太田裕美は、明らかに別人の観があると思っている。だからこそそれぞれを別のものとして評価できるのだろう。
「雨だれ」から「心が風邪をひいた日」まで(「木綿のハンカチーフ」LPバージョンはこの時期に含まれる)を第1期、「モメハン」以降を第2期、そしてテクノ期である。人によっては、第2期を2つに分ける人もいるようだ(うぐいす氏など)。さらに、最近カムバックに近い活動を始めたようである。これをいれると、太田裕美は4人いたことになる。
私の太田裕美観(情緒的分析)
私は、太田裕美とは、歌手・太田裕美を通して、自分の頭の中で勝手に描いた理想の女性像に他ならないと思っている。ユングのいうアニマというやつだ。だから、彼女のスキャンダル(ごく少数だったが)が流れた時も、「太田弘美(彼女の本名)と太田裕美は別キャラクター。個人が何をしようと個人の勝手」と割り切って、冷静でいられた。彼女の結婚の時も、「結婚はしないつもり」(『まごころ』ペップ出版刊)と言っておきながらだましたな、なんて思わなかった。
そういう意味から、今の太田裕美さんをどう評価していいのだろうか。結論から言うと、今の「太田裕美」さんは、私にとっての太田裕美ではない。「太田裕美」を名乗ってはいるが、福岡弘美さんという、カラオケで太田裕美を歌わせればやけに上手い(当たり前だ)、一人の主婦に過ぎない。まあしかし、太田裕美をもっともよく思い出させてくれるメディアであるのは確かだし、日本一可愛い43歳だろうとは思う。
太田裕美の旬
私は、太田裕美の旬は、22歳頃だと思っている。おぼつかないところがあった『短編集』までの素朴さも乙女乙女していてよかったのだが、『心が風邪をひいた日』あたりから奔放な感じが出てきて、『手作りの画集』『12頁の詩集』『こけてぃっしゅ』あたりが歌唱力の頂点だった。とくに『手作り』『12頁』は、最もハズレが少ないアルバムであろう。シングル曲『9月の雨』が「大リーグボール3号」のごとく、彼女の喉をつぶしてからは(『エレガンス』の時に完治したらしいが、歌い方は変わっていた)、やはり歌唱力・人気とも下降線をたどった。シングル「恋人たちの100の偽り」や、LP『背中あわせのランデブー』は、本来出してはいけなかったような気がする(個人的には好きだけど)。
最近(40過ぎの今ですよ)、彼女は容姿的に変化したような気がする。若い頃の彼女は、典型的な「可愛い」タイプで、私は、客観的には美人の範疇には入らないと思っていたが、最近の彼女は「美人」タイプに変わったような気がする。太田裕美を理想とした瞬間、「美女は女にあらず」とばかりに、世の美人タイプの女性を一切視界から排除した私だけに、これはちょっと複雑な気分である。
リバイバルCDから〜『思い出を置く、君を置く』にみる「らりるれろ」の弱点
最近、『君と歩いた青春』『ごきげんいかが』『思い出を置く、君を置く』『Feelin’Summer』『12月の旅人』(順不同)の5作がリバイバルしたが、この中で、これまで重視していなかった『思い出…』が印象的だった。レコードで出た当時の自分には、そのよさが理解できなかったのだろう。単発で終わったのが惜しまれるが、新たな境地も開けた可能性があったのではないか。じつに味がある。ただ1点、難を言えば、彼女のセールスポイントである舌足らずが、ものの見事に災いしてしまっているのだ。悟浄五段氏には笑われるかもしれないが、彼女の「らりるれろ」は、あれはあれで魅力の一つだろう。発音記号で言えば【r】が【d】に、とくに【ru】が悲惨なくらいうまく発音できないのだ(歌の中でも発音成功率50%以下であろう)。私にはあれは素直に可愛いと思えるのだが、ことこのアルバムに限っては、完全にマイナスにしかなっていない。
だれしも心の中に太田裕美がいる
情緒的分析にせよ、唯物的分析にせよ、要は、ファンであるならば、だれしも心の中に太田裕美がいる、ということなのである。太田裕美というメディアをとおして、自らがつくり出した、自分の心に住む「太田裕美」というイメージ、これを大切にしながら、心の中でさまざまなストーリーを作り、成長していく――これが私の青春時代だったような気がする。
そして太田裕美を卒業する時――それは、心の中とは別に、自分だけの「太田裕美」を見つけた時ではなかろうか。その意味で、私だけの「太田裕美」は、妻である。むろん容姿は似ても似つかないが、自分にとって、人生を生きていく上でかけがえのない人、それが「心の中の太田裕美」とは別の、象徴的な意味での「俺だけの太田裕美」なのだと思っている。
そして、今、妻に冷やかされながら裕美さんのライブを見に行くのは、なんとなく卒業生が同窓会に行くような気分、といったら今なお熱烈なファンの方には怒られるだろうか。
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