ここでは、「北方ハードボイルド」異色作である、2つの作品を挙げる。どこが異色かといえば、いずれも、主人公が過去に愛した女を助けるというストーリーになっていることだ。女に対する未練ととれなくもない。「恋愛小説」などと評された作品もある。しかし、そうは言っても北方HB。ホントのテーマは違うのだ。女を助けるという行為は、主人公にとって実は手段にしか過ぎない。やはり「男であること」へのこだわり、これが彼らの行動の真の目的なのだ。
助けを求めて、女がどこかで泣いている…。彼らにとっては、どこであろうと、助けにいくのが当然のことなのだ。
のけぞった体言止め三連発
離婚して7年も経つ女を追って、ロス、ニューヨークへと飛んでアクションを繰り広げるという、一見すると荒唐無稽な話である。しかも、まだ愛しているかもしれないという設定である。さらに、章のタイトルにしても、第3章「マンハッタン・ブルー・デイズ」などと、およそ硬派・北方HBとは似つかわしくない。
しかし、それでもやはり、本作はまぎれもない「北方HB」であり、主人公・上杉竜二は、充分に北方HBの主人公を張る資格を持つ男である。それは、格闘に強いだけではなく、殴られてびびり、事件から逃げるのでなく、むしろ殴られて目覚め、どんどん騒ぎの渦中に突っ込んでいくことからである。
また、上杉は、北方HBのヒーロー固有の陰を持っている。上杉のもつ陰は、過去に登山で親しかった後輩を死なせたことに起因する。そして、「自分も何か大切なものを失うべき」という気持ちに迫られ、愛していた妻・杏子との幸福な家庭をことさら破壊するような振る舞いに走ってしまう。杏子の方としてはいい迷惑だ。しかし、上杉のその当時の気持ちは、わかるような気もする。男の立場で考えると、しかたがないと思うのだ。上杉の記憶の中で彼女は、どこか夫を恨んでいないような気配を漂わせている。そして7年後――。
第1章「雷鳴」では、豪雨と雷鳴の中、上杉の運転する車の前に立ち塞がった杏子の現在の夫・佐伯が登場し、「杏子は来ていないか」と初対面の上杉に問うところから始まり、まもなく無言電話である。「杏子か?」思わず声に出そうになりながら、その時は「喋らない相手を詮索するのは無意味なことだ」と流してしまうが、このシーンが本作全体を貫く、一つの象徴的シーンとなっている。
きわめつけのシーンは、文庫版56ページから57ページにかけての、
――7年前、部屋から出ていく時の杏子。テレビでちらりと見た杏子。雨の音しか聞こえなかった電話。
この「体言止め三連発」の大技である。北方氏得意の手法ながら、ここまで見事に決まった例も珍しい。くどくどと書くより、じつに雄弁に、かつ叙情的に、主人公の思いを凝縮させている。ここを読んだ時、思わず私はのけぞってしまった。
雨の日の無言電話を心に引っかけながら、上杉は、杏子を捜しにロスへ飛ぶ。「俺がいる」(どこかで聞いたようなセリフだが)、この一言を知らせたいがために…。
撃ち合い・カーチェイスなど、ハードボイルドの本場アメリカに渡り縦横無尽の活躍をした後、上杉が杏子と対面するのは、本当に最後の最後の方である。どこまでいっても、影が見えてきても、とことん杏子は出てこない。このあたり、ラストの展開も含めて、実に秀逸である。
脇役陣も渋い。シリーズキャラの「老いぼれ犬」はアメリカでは活躍の場が制限されるものの重要な役どころはしっかりおさえている。なにより、日系の私立探偵・オサハラがいい。スキンヘッドで、「ユル・ブリンナーみたい」などという表現も出てくる(古い!)が、実は実在のモデルがいるとのことである。その名も、船原長夫(…って、そのまんまやないか!)。実際には日系人ではなく関西弁を話す日本人のミュージシャンとのことである。ちょっと関西弁というのがイメージが狂うが…(じつは私は関西人蔑視主義者)。しかし、一度見てみたいと思ったのは私だけではないだろう。
最後に細かい話になるが、文庫版第2章「カリフォルニアの空」と、第3章「マンハッタン・ブルー・デイズ」の最初に、それぞれロスとニューヨークの地図が書いてあるが、本文に出てくる地名がほとんど網羅されておらず、本文の参照にはまったく使えなかった。このあたり、集英社さん、なに考えてんのかね〜と思った。
君に訣別の時を(1984年2月・講談社。初出:『小説現代』一挙掲載)
男なら一度は決めたい決めゼリフ
こんな小説が一挙掲載されていたなんて、『小説現代』もなかなか侮りがたい。これは要チェックかな…。
さて、本作は当HPの冒頭に引用したフレーズの出典である。一度は言ってみたい決めゼリフである。たとえば…
(会社で後輩から)「先輩、さっきどうして課長に食ってかかったんです? 黙ってればいいものを…」
「忘れたくないんだ」
「なにを?」
「自分が男だってことをさ」
「上司ににらまれることがそうなんですか?」
「時にはな」
ううっ、やはりサラリーマンの発想って、スケールが小さい…(T_T)。
とにかくぜひ読んでほしい作品
さて、与太話はこのくらいにして、本作の評にはいろう。本作は、北方HBの中で、私が最も好きなものの一つである。なぜか。それは、無条件に楽しめるからである。テンポがよく、それでいて、「男」の重さ、過去へのこだわりなどといった北方HBの要素がいかんなく随所に生かされている。主人公・立花新太郎も魅力充分である。まず、なんと言っても、強い。男3人を相手に、勝てはしなかったものの(「素手乱闘1対3の法則」による)、相手をたじたじにさせた。そして、若者を死なせたという過去が彼の陰になっている(このあたりは『逢うには、遠すぎる』と一緒である)。このあたりも、北方HBヒーローの条件を満たしている。
なにより魅力的なのが、その行動である。
まず、立花は、ストーリーの中で2人の男を精神的に助けている。1人は、重要な役どころとなる美人ママ(新聞で言う意味での「美人」でなく、典型的な北方HBにでてくる「いい女」である)・まり子に密かな憧れの感情を抱く若者・山下である。山下青年は、まり子を困らせる奴はみんな敵、と思い定めていて、いきなり立花に卒塔婆を投げつけたりして敵意を表す。立花は、初めに彼を叩きのめすが、中盤以降では、自分の行動を手伝わせる過程で山下青年を「男」にしていく。もう1人は、画家であり、まり子の夫である野口富夫(トミー)である。画家としてだめになりかけた野口を救うべく、最後には立花はまり子を彼から引き離すために、まり子とひと芝居うつ。
さらに、ラストの、過去の女・池田悠子との会話である。本作での「過去の女」との再開シーンは、『逢うには、遠すぎる』と比較するとだいぶ長い。その最後の悠子のセリフ、「わざわざ、さよならを言いに来てくれたんでしょ…」が、本作の表題『君に訣別の時を』と呼応している。立花は、過去、そしてその象徴である池田悠子と訣別し、ふんぎりをつけるために、彼女と逢ったのだ。そのために、わざわざ三陸までやってきて、危険も冒した。「俺には関係ない」と言って女の手紙を無視してしまうのが普通だろう。この、およそ現実では考えられない、奇特とも言える行動こそが、彼が自身のためにやったこととはいえ、立花の行動の大きな魅力となっている。
会話のテンポも最高である。とくに立花とまり子の会話がいい。トミーも、会話だけなら充分にハードボイルドしている。本作は北方HBとしてはマイナー系列に属する講談社からの刊行なので、北方ファンであっても意外と盲点になっているのではないか、と思う。したがって、ここでそのさわりを紹介することはあえて避けるが、これぞ北方HB、とうなることうけあいである。ぜひ読んで欲しい。
美女・まり子もgood。本来のヒロイン・池田悠子がかすんでしまうくらいだ。男にとっては「魔性の女」だが、だからこそ、たまらない魅力があるのだろう。
最後にもう一言付け加えておくと、この作品の舞台となった地方を北方氏は訪れたことがないそうである。執筆にあたっても、一切取材せずに、地図などの資料をもとにすべて書いたのだという(一部地名などは変えているが)。氏のエッセー『第二誕生日』に書いてあったのだが、それを読んだ瞬間、「エーッ!?」と声をあげてしまった。作家ならば、そんなことも決して珍しくはないだろうと思っても、まさか本作だけは、取材していないとはとても信じられなかった。
本当に、作家とは恐ろしいものである。