「三国志」好き、「北方」ファンである私としては当然、「買いの一手」という図式になる。
はっきり言って、目茶面白い。「時代はちょっと…」という北方ファンも、「やっぱり吉川三国志じゃなくっちゃ…」という三国志ファンも、一読の価値がある。北方文学の新たな展開があり、かつ、今までのどの三国志よりもエキサイティングである。
――劉備は、督郵の顔面の中央に拳をたたき込んだ。
いきなり劉備がハードボイルドしてる!第1巻でこんなシーンが出てきて、思わずのけぞってしまった。氏はやはり、HB精神を失っていなかった。
登場人物一人ひとりの個性に厚みが増しており、主なキャラがみな主人公、といってもよいのが特徴である。とりわけ呂布が、実に魅力的である。大抵の三国志で、斬り合いには滅法強いが、バカで、人格も最低、という扱いしか受けていない彼が、戦略面でも非凡で、人心もよくつかむ名将に変貌している。このあたりに、「男は武闘派であると同時に知能派でなければならない」という、北方HBの哲学を感じる。丁原や董卓を裏切ったことも、彼なりの理があってのことになっている。もちろん”硬派”北方文学に、貂蝉など出てこない。呂布の死は、なんとも涙を誘うシーンである。
諸葛亮が登場するあたりから、設定のリアリティにやや無理が出始めるが、これは「三国志」である以上宿命である。新野の敗走は作戦だったという設定など、むしろそう考えたほうが理屈は立つという面もある。また、孔明が初陣で剣をふるうのも、いままでに考えられない意表を突くシーンで新鮮だった。
氏は、兵の鍛練を重視し、いかに鍛え上げられた寡兵が雑兵の大軍より強いかを、巧みに描いている。また、諜報重視も大きな特徴で、他の「三国志」では名前すら出てこない、石岐(曹操の腹心)や応累(劉備の腹心)といったキャラが脚光を浴びている。
関羽の死をひとつの時代のターニング・ポイントと見る作家は結構多く(作家でもない私でもそう思うが)、氏もその一人である。多くのキャラを主人公的に描く手法があだとなり関羽の影がいくぶん薄いといううらみはあるが、関羽の最期は、やはり涙なくしては読めないハイライトであろう。
「ところで郭真、江陵の館の庭には、また花が咲くのか?」
「はい、今年の最後の花が」
「どんな色だ?」
「青です。抜けるような空の色です。この雪で、いたまないといいのですが」
「私には、あの花が慰めだった。次にはどんな色の花が咲くのかと、いつも愉しみにしていた」
「青い花が、咲きます。それから、ほんとうの冬になってくるのです」
一礼し、郭真は立ち去っていった。十名の兵は、ひとつの焚火を囲んでいる。
夜が明けても、雪は降り続けていた。
「郭真、旗をあげよ。関羽雲長の旗を」
「はい」
「城を出る。私は、最後まで諦めぬ。男は、最後の最後まで闘うものぞ。これより、全軍で、益州の殿のもとへ帰還する」
十名。それが全軍だった。
九の巻「軍市の星」の帯にもなった名シーンである。本文を読んだとき、私はここで涙を抑えられなかった。やはり関羽は、「三国志」の事実上の主人公である。
なぜ「北方三国志」が名作なのか
その答は簡単明瞭である。既存の物語に題材をとりながら、今までにない、全く新しい小説となり得ているからである。「演義」もしくは「吉川三国志」をベースにしつつ、著者独自の解釈を加え、既存のどの「三国志」とも別の、新たな世界を築き上げている。この点は、むしろ主な登場人物別に分析していった方がわかりやすいだろう。
「北方三国志」登場人物別吟味
1.諸葛亮
まず筆頭は諸葛亮孔明である。その人物像は、これまでの超人的・神がかり的なものから脱し、人間・孔明の姿が生き生きと描き出されている。それはむしろ、今までの孔明像よりはるかに親しみやすい、共感を得るものとなっている。
その第一の例が「三顧の礼」である。
これまでは、劉備がさんざん頭を下げ(常識的には屈辱とも思えるほどの低姿勢だ)、孔明が「仕方なく」腰を上げた(なんてタカビーないやな奴なんだ)ような筋になっているのが常であった。
しかし、「北方三国志」はその常識を覆した。
対面時の孔明は、あくまで冷ややかである。しかし、劉備が去った後、心が揺れる孔明が描かれる。学問もきわめた。しかし、世に出るのが遅すぎた。曹操のもとへ行けば出世する自信もある。しかし、どうしてもそうする気にはなれない。畑を耕し、立派な作物も作れるようになった。しかし、孔明の作物は大きさは立派だが味がない。土を耕しながら、呪いを土に込めてきた。「このまま朽ち果てるのか…」
そして3度目の劉備来訪。読者はおよそ信じられない記述に出会う。「この声を待っていた」――まるで恋人を待ち焦がれる乙女状態である。これで、劉備が孔明を必要としていただけでなく、孔明もまた、劉備を待っていたことがはっきりわかる。孫策と周喩を「ふたりでひとり」としていたが、劉備と孔明もやはり、ふたりでひとりなのである。
次の例が孔明の初陣である。すでに述べたように、初陣で孔明は趙雲の側を駆け、自ら剣をふるう。「知謀の士」といえども、著者は武闘派としての側面を持たさずにはいられなかったのだ。
最後に挙げるのが、漢中攻防戦である。孔明は、自ら策を建てながら、そのタイミングを待ちきれず、押し寄せる曹操の大軍の圧力に負けて合図を早く出そうとしてしまう。そこで劉備が、「実戦は俺に任せろ」とばかりにそれをたしなめ、落ち着いてぎりぎりまで敵を引き付け計を発動する。こんなところにも、決して完全無敵でなく、人間らしい孔明像が現われていて、好感が持てる。
2.張飛
お次は「三国志」一番のやんちゃ坊主、張飛翼徳である。
「演義」他の三国志では、ちょっと思慮が足りない暴れん坊として描かれているが、「北方三国志」では、充分思慮のある、優しい男となっている。張飛が粗暴なのは、実は劉備がキレるのを防ぐ(あるいは隠す)ためにそう装っているという設定になっており、徐州失陥の際の失策も故意ということになっている。それよりも何よりも興味深いのは、張飛の「優しさ」であろう。
張飛の「優しさ」は、王安や陳礼とのやりとりに如実に現われている。とくに長坂の戦いで王安が戦死した直後に憤怒がかけめぐるシーンなどは、目頭が熱くなる。そして隆中時代の孔明の身の回りの世話をしていた陳礼が彼を慕ってくるのに対し、王安を思い出すためどうしても突き放してしまう。張飛は心の中でそれを妻・董香のせいにするのだが、彼女の方が意外に割り切っていて、実はこだわっていたのは自分であったことを悟る。
「北方三国志」の張飛は屈指のロマンチストでもある。義兄弟の中では唯一の恋愛結婚であり、妻の暗殺によりすでに生きながらの死を迎えてしまうほどである。最期におよんで、刺客の路幽に「死ぬまで俺が抱いていてやる」なんていうセリフが吐けるキャラクターは、他にいないだろう。
3.馬超
いろいろ挙げていくときりがないのでこれで最後にする。「北方三国志」で最も印象に残るキャラクターが、馬超孟起である。同時に、従来のイメージから最も大きな変貌を遂げたキャラクターである。私の感想では、彼が最も「北方的」なキャラクターではないか。
従来の馬超といえば、劉備の入蜀前あたりから活躍しはじめ、成都攻略戦直前に劉備に帰順し、「五虎将軍」となりながら、その後あまり大きな活躍も見せないまま(せいぜい漢中攻略戦くらい)南蛮戦後まもなく病死してしまうというものであった。はっきり言って、ヒーローものの敵キャラで、倒すのには苦労するが味方になった瞬間にとてつもなく弱くなるというよくあるパターンを思い起こさせる役立たずである。
しかし、この活躍場面があまりに短く、キャラクターが明確に描き得ないという特性を、著者は逆につけ目にし、自由自在に自分の色をつけたように私には思える。理想もない、虚無的な性格。張衛とのやりとりに見られるような、皮肉な会話。そして腕は滅法たつ。まさに北方ハードボイルドを代表するキャラクターである。
彼は、簡雍(このキャラも今までになくクローズアップされている)の死後、「仮病死」して劉備のもとをはなれ、隠遁してしまう。著者としては、どうしてもあのあっけない死が許せなかったのだろう。そして、物語の完結場面では、なんと馬超の視点で語られている。私はエンディングは誰の視点で書かれるか、楽しみにしていたのだが、まさか馬超がシメる三国志など、誰が想像できるだろう。
袁術の娘(イトヘンに林、なのだが辞書にない)とのロマンスも意表を突いた取り合わせで面白いのだが、その中でもあくまで馬超は不器用である。最後に玉璽を剣で斬って彼女をその呪縛から解放するあたり、ハードボイルド代表の面目躍如というところだろう。
諸葛亮の北伐をめぐって
最後に、諸葛亮の北伐についての解釈を論じて締めくくりにしよう。
(工事中。近日公開)
おまけ:群雄の死因
「北方三国志」では、群雄の死因がわかるのも面白い。孔明(群雄ではないが)の過労死はあまりにも有名だが、その様子が孔明本人の視点で描かれることにより非常にリアルに書かれている。
群雄では、曹操が脳卒中、劉備がガンである。また、孫堅の最期(第1巻のラスト)は、古くからなじみの北方ファンには、『弔鐘はるかなり』のエンディングを思い出させる。そういえばこの章は「地平はるかなり」という章名であった。北方謙三、なかなかニクいものがある。
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