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2006年6月分

[星の輝き/「プルートで朝食を」「キングス&クイーン」]


6月28日
 おおくのことは忘れてしまった。でも夢のなかで夜の空に星が瞬いていて、きれいだな、
と空をみあげていたのを覚えている。夢のなかで天の川のような星空が現れたのなんて初めて
かもしれない。空が暗かったことや、でも星の輝きがあったことや、あれっと、気になって
星があるのだと意識したことが、目覚めても残っている。

 先日、詩学社へ行くとき、少しだけ湯島天神に寄ってみたら、お社の外の梁の上に、幾つもの
説話の彫像があった。因幡の白兎と大黒様や、恵比寿様が赤い鯛をつり上げているところもあった。
そんななかで天の川を挟んだ織り姫と彦星の別れのシーンもあったのだった。星に託してお話しを
創り語り継いできたことは、けっこうたくさんあるのかも知れない。織り姫と彦星が一年に一度だ
け会えるということが星の輝きなのだし、赤裸に皮を剥がれた兎が、大黒様の教えを受け薬を貰え
たことが星の輝き。星の輝きは、闇のなかで希望の輝きなのだった。

 このところ大人の映画、というのも変だけれど、そんな映画を二つ見た。
 一つは「プルートで朝食を」。70年代、内戦の激しい頃、アイルランドの小さな町で、教会
の前に捨てられていた赤ちゃん、キトゥンの物語。キレイなものやアクセサリーが好きな少年は
変わり者扱いされ、ついにロンドンに母を捜しに家出する。神父とキトゥンとの関係や、里親
の家族との摩擦や、幾重にも変わったところのある自分を耐えて、生き延びてゆくところが感銘を受ける。
内戦という状況も加わり、複雑に絡み合う人間関係の嵐のような中を、キトゥンが生きてゆくための選択は、
いつも幸福の選択へ開いていて、笑うことで耐えていった彼の(彼女の)しなやかなでも強い力
に、教えられるようだった。
 もうひとつはイメージフォーラムで見た「キングス&クイーン」。
 これはフランス映画で、ノラという35歳の女性と、一人息子や、亡くなった初めの夫、
別れた次ぎの夫、これから結婚しようという関係の男、末期ガンのノラの老父という、
すさまじく錯綜した関係のなかで、それほど素敵な人でもなく、エゴイスティックで、
子どもを愛しつつも、仕事を持ち、老父を看取りつつも感謝されなかったノラという
人の孤独と、愛と、幸福への選択、という映画。さまざまな映画の物語や、ジャンルや
男女の関係を組み合わせていて、とにかくいろいろなコードがノラやノラの夫や父を
つないだり、横断したりしている。現在の複雑怪奇さのままに。ノラとの諍いがもとで
亡くなった夫が病院に現れ逆にノラを励ましたり、介抱されて死んだ父が遺書のような
メモで娘をなじったり、さまざまな屈折率の高さにくらくらする。が、それでも、いい
人ではなかったかもしれないがノラの選択はノラなりの愛によって幸福への選択に開かれ
ているのだった。これはアルノー・デプレジャン監督の映画の織物かも知れないが、と
にかく生きることへ開かれているのだった。


[ささやきが寄せてくる]

6月23日
 小さい石を蹴ってあるいた。空き缶を蹴ってあるいた。小石も空き缶も
どこまでも一緒にはゆけないけれど、すこしの間は一緒だった。そんな頃
からのささやきが寄せてくる。歩き過ぎてしまえずに、よせてくるささやき
に耳をかす。数秒でもいい、ささやきのさざ波にゆすられたい。



[眺めに変える]

6月21日
 水面でかげろうのように高層のビルが揺れている。曇り空も揺れ、
グレーのさざ波が目を遠くへ運んでゆく。みると、さざ波の上を白鳥が
一羽横切っている。この白鳥はビルや車の流れを雛のときから知ってい
るのだろか。

 用事で築地まできたので、銀座線へ出て丸の内線に乗り換えて大手門で降りる。
いまも伊藤若冲の「動植採絵」が見られるから。いまは三期目になっている。
 「秋塘群雀図」の群れて飛ぶ雀のなかのたった一羽の白い雀。
 「蓮池遊魚図」の魚の流れの中で一匹だけ異種の魚。それらに目がいったとき
群れにあってただ一人、違う者の自覚が、迫ってきた。若冲胸の内が響いて、
蓮の葉の縁が枯れかけていたり、染みができていたり、穴が開いていることまで
が陰影となって、心のこととして感じられてきた。


 「新しい詩人」というシリーズの小笠原鳥類さんの詩集『宇宙、わたしは宇宙だ』
とキキダダマママキキさんの詩集『死期盲』をあいついて送っていただいた。これか
ら読んでみたい。
 ちょと前に同じく若い詩人の江村晴子さんの詩集『うらしろ』(ふらんす堂)を読み
古語を自分のものにした詩がとてもおもしろかった。「とよ」という音と馬の動きの
雰囲気がなんともいえずにすきだった。

 とよ     

うまが とよとよ
はるは はぎしりのなかに
ばんすらく たけかわはんす あさはなだ
ゆきのまえいわい
うそどりをとりかわして
まれにみるよきやしゃをつかわし
ほこりはなく
あるじはなく
はぐるまのかげに
ふしてまつ だれかと だれかを
さかを
ばんらいの はぎしりのなかを
うま とよとよと かけぬけるはる



[髪を切りたい]

6月19日
 きょうは暑くて湿気もあってついにエアコンの除湿を使ってしまった。
義母がきのうから背中が痛くなり口内炎も痛いようでいろいろ気をつけている。
とくべつやわらかい夕ご飯を考える。夕方スーパーに買い物に出ていたら
読売新聞の小屋敷さんから、ゲラのファックスがある。明日の夕刊の
文化欄「こころのページ」に載る詩の校正。全国紙に詩を書くのは実は初めて。
どきどきしながらすぐに見てファックスを送る。

 写真だけのコーナーを開きましたよかったらこちらも見てください。
 

[影がみえる照明]

6月14日
 いつもはテーブルの上に影はこんなふうに写らない。何かのかげんで照明の
リモコンがおされて、蛍光灯の種類が変わったのだ。見える影と見えない影が
あって、部屋のなかを空気が揺れると、影も揺れている。そんな光景がふと浮か
び、たよりなくふわふわしているものを、私は好きだなと思う。


[紫陽花のなか]

6月13日
 ほんとうは紫陽花の萼を花と呼んでいる、ということは知っていた。
でも、あらためて萼の中心に可憐に咲いている花を見るまで、どういうことかわからなかった。
紫の五枚のちいさな花びらが勢いよく花粉をつけている。小さくて賑やかで活気があった。

 ● 読売新聞の6月20日火曜日、夕刊に掲載される詩を書きます。
  よかったら見てください。


[空中階段のめまい]

6月8日
 この吊られているような高層階段は、ビルなのだろうか、階段なのだろう
か、目にしただけでも不安定になって体が傾ぎ浮きそう。 

 この日はとても濃い一日だった。原美術館の「束芋」の展示は渾身の束芋で
「ヨロヨロン」というタイトル。「真夜中の海」「にっぽんの台所」
「にっぽんの通勤電車」「公衆便女」など圧倒的なメッセージで迫ってくる。
ショックを受けること間違いなし。
 そのあとギャラリー本城で「有馬かおる」の展示を見に行った。視覚文学論と
いう評論をギャラリーのサイトで読んであったけれど、なるほど、物語空間が
落書きのような手書きの一枚の空間にひろがっていて、どこかへ連れていかれ
たようだった。岐阜のアトリエ「キワマリ荘」へ行って展示をみてみたかった。
初日で有馬かおるさんが在廊。すこしお話しを聴くことができた。絵に添えられた
言葉は、「線」という要素や、世界観を広げるということのためにある、という。
言葉を書くことが主の私では思いいたらないこと。聴けてよかった。
 そしてもう一つギャラリー小柳の「オラファー・エリアソン」。光が象を結ぶ
ということが空間と観念の間で行き来しているようだった。目に見え、手に触れら
れられない、実象から派生する世界。高原の水たまりの写真の空はそこに時間が
加わっていた。

 川口晴美さんの詩集『やわらかい檻』を読むと、怖くてたまらなくなる。
それなのに落ち着く。生きているの、死んでいるの、いるの、いないの、
と「私」や子どもの「私」が宙吊りにされたなかで現れる。
ホラー小説の感覚が濃いけれど、ホラー小説ではない心のリアリティが
ことばの技術で生きていて、ストリーはあるのに、ストーリーよりも、詩の言葉から
感じるリアルへと読む者が連れていかれる。この詩集では特に、読む人
は想像力を使って詩へ添うことがあまりいらない。ぜんぶ書いてあるのだ。
読んでゆくと、死んでしまっているかもしれない、或いは、これから殺され
るのかも知れない、ということがちゃんと感じられるようになっている。
そこが凄い。このように緻密に書くことは川口さんの詩論が関わっている
ように思う。小説とか詩とかのこれまでの言葉の形式を疑ってみる意志が
なければ突き進めないのではないか、とここに私は新しさを感じる。
  そして私が最も怖く、また絶望から滲む甘さに驚いたのたのが
「椅子工場、赤の小屋、それから」の詩だった。ヒステリックで強権的な
ママと、その傷を閉め出す子どもと大人の「わたし」がいて、子どもは殺され
そうな危険にさらされ、それは現実のようで、大人のわたしの夢と交差する。
「サスペンス、ワイド、いつか」「小鳥屋」「壁」も素晴らしかった。そして
さらに、詩集の中の子ども達の受難は、今の日本に連日のように起こる事件を
鏡のように映しているのだった。


[茎は虫の幹線道路]

6月5日
 あじさいが咲きはじめているから、顔を近づけると、虫が茎を昇っていた。
葉へゆくのではなく花へゆくのだろう。やはり。蜜なんか飲みに昇ってゆく
のだろう。あじさいは、たくさん花が集まっているから虫にとっては蜜畑か
も知れない。

 夢を書きとめようとフェルトペンとメモを枕元に用意して眠ったのに、朝、
まったく何も覚えていなかった。夢をみた感じは残っているのだから何かで
て来ないだろうか。

 きょうは総合誌「北冬」へ送った詩の推敲をしていた。送ってもまだ直したくて。
ここは脇道に逸れているから省いてみよう、というように、していたら、すっきり
とまとまったものの、なんだか読んでいて楽しくない。詩は整う必要もない、という
ことを改めて意識しよう。脇道は脇ではく、道が別れ豊かになっているという面もある。
一見役にたたない枝の道がさらに枝別れして、書き始めのもっとはじめの、無意識へ
通じてゆく。別れた道は、裾野へ広がってゆくと思いきや、記憶を遡ってゆくよう
なのだった、それは書くことを耕してゆくことでもあるようだ、と今日の反省から
そんなことを考えた。
 
 ・・この頃ときどき気持ちが沈んでしまって、そういうときはまた
地面を見て歩いているので、これは気をつけないといけないな、と思う。
だからこそ、カメラを手にしていないと、何も見なくなってしまい、
つまらない思いをぐるぐる回してしまう。


● 西元さんからメールをもらってエアパークの詩「世界、」の
 一部を直しました。行の切り方が違っていました。皆さん
 どうぞまたご覧ください。


[なぜ見えたのか]

6月1日
 昼だったし、頭上の電柱にとりつけられた街灯を、見て歩いていたわけではないのに、なぜか
見つけてしまった。ヤモリ(だと思う)がぴたっと取り付いているところを。
 目にまかせておくということが、もしできたなら、どんな映像になるのだろう。直感で、無意識
に危険なものとか、好ましいものを撮ってゆくことになるだろうか。見ることはまだまだ量り知れ
ない、と思うとわくわくする。


 ★ゲストコーナー「エアパーク」復活!

 ずっとお休みしていましたが、この度、詩人の西元直子さんの詩をお迎えしました。