今月へ
2010/2
[指先の風] 2月28日 どこででも指先で風にふれることができる。 おもいっきり吸い込んで息を吐く、何度か繰り返す。 体のなかを風が通ってゆく。 バンクーバーオリンピック、もうすぐ閉幕ですね。 私はフィギュア・スケートの高橋大輔のフリーが最も好きでした。 フェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」は、 旅廻りの大道芸人ザンパーノの無骨さと、ジュリエッタ・マシーナ演じる ジェルソミーナの純粋さと素朴さが、切なく胸を振るわせる物語でした。 あの世界がスケートでこんなに表現されるなんて、ほんとうに驚きました。 何度も見たくなります。 [2002-2003の頃はデジタル写真と言っていた・小林のりおキッチンコラボレーション] 2月23日 7、8年前にはデジタルカメラの写真のことをデジタル写真と言っていた。 画面はウェブで写真のコラボレーションを率先して行っていた小林のりおさんの 「デジタルキッチン/キッチンコラボレーション」の投稿画面。写真とタイトルは別にあった。 小林のりおさん以前は、ウェブで写真のコラボをする人はいなかったので創始者になる。 写真が大きく変わろうとしていた時期だった。それはウェブとともに写真に限らず 表現者が一歩踏みだそうと模索していた時期。 私は、その画期的な開放感に惹かれいてた。日々更新されるエンドレスのコラボの伴走 をしながら、表現の自由を直感し、私も参加させていただいた。 写真と詩の狭間に身を乗り出すきっかになった出来事でした。 maki [tea]2/21の投稿は、朝に入れた緑茶の急須にまどからの光が差し込んだ光景。 [言葉と写真] 2月17日 私の中の別々の扉を開けて、現れてきた詩と写真について、 ふたつの言葉と捉えたらどうだろうか。詩の言葉と、写真の言葉あるいは声。 もちろん写真は言葉ではないし、言葉でおきかえられない映像の本質をもっている。 にもかかわらずそこには詩と肉薄するような言葉化する以前の詩の言葉が声が聞こえる。 多和田葉子の『エクソホニー 母語の外へ出る旅』を読んでいて、こんな文章に出会った。 「わたしはバイリンガルで育ったわけではないが、頭の中にある 二つの言語が互いに邪魔しあって、何もしないでいると、日本語が 歪み、ドイツ語がほつれてくる危機感を絶えず感じながら生きている。 放っておくと、わたしの日本語は平均的な日本人の日本語以下、そして わたしのドイツ語は平均的なドイツ人のドイツ語以下ということになっ てしまう。その代わり、毎日両方の言語を意識的かつ情熱的に耕して いると、相互刺激のおかげで、どちらの言語も、単元語時代とは 比較にならない精密さと表現力を獲得していくことが分かった」 ドイツ語と日本語の二つの言葉で同時に同じ小説を書いてゆくことを 実践している多和田さんならではの手応えを書かれていてはっとする内容だ。 こうした危機感は私にとっては詩と写真の間に走っている。 二つの言語を毎日耕すことの厳しさは想像を超えるだろう。 詩と写真、を二つの言葉というなら私はどれだけこの厳しさに耐えて ゆけるだろうか。耕してゆけるだろうか。 [ポエムコンシェルジュの選んだ一篇、に選ばれる] 2月15日 ミクシイ経由でイダヅカマコトさんからメールをいただきました。 毎日! 一篇の詩を取り上げるほぼ日刊のブログ、「ポエムコンシェルジュが選んだ一篇」 に詩集『青い影 緑の光』から「どの手がすきか」が選ばれました。 日々、興味深い更新があります。吉原幸子の詩もあり、ポエムコンシェルジュ という想いが形になってゆきつつあるブログのようです。 昨日から腰痛。せっかく体調戻ってきたのに。 コルセットしてます。・・お風呂の中で咳をしたらなってしまつた! ナンデ? [リンクや感謝] 2月11日 トルタウェブ ブログとは別にあるトルタウェブと相互リンクしました。 詩誌「ひょうたん」39号40号を水嶋きょうこさんから送っていただいた。 充実した内容が読み応えあります。 森ミキエ詩集『沿線植物』の川口晴美さんの批評がおもしろい。ヨン様!とは。 通路の詩と写真の展示に、お寄りくださった皆さん。ありがとうございます。 野木京子さん、平田俊子さん、下関から上京のときに寄ってくださった長谷部奈美江さん ご感想をお送りくださってありがとうございました。平田さんからは小説『私の赤くて 柔らかな部分』をいただきました。郊外の個性ある食堂がでてきてかもめ食堂のように 関係がうまれておもしろい小説でした。ありがとうございました。 また詩のコミュニティ「なにぬねの?」の風の族さん。静岡から、感謝です。 感想もありがとうございました。 [たのしい写真展 永沼敦子] 2月9日 まだいってないのです。 でもとてもたのしそうな展示のようすが永沼敦子さんのブログにあります。 切り紙の蝶やなにかがぶらぶらしてたり、部屋の角を写真が消していたり。 「人間が言葉を使い始める前、世界はどのようにつながっていたのだろう」 というまなざし、についていろいろ見てきたい。 ガーディアン・ガーデンの永沼敦子展『目くばせ』 [葉の裏に咲く/ブリングル御田さんの詩集『次ぎ曲がります』] 2月7日 まるで陽差しにあたりたくないように葉裏に花開く椿。鳥にたべられないように なのだろうか。枝のしたにくぐって赤い光をみる。 ブリングル御田さんの第一詩集『次ぎ曲がります』を読む。 母体の体感や詩人母のまなざしが言葉の勢いにのって、あっけらかんと出てきて のうのうと詩に収まってしまった作品をこれまで読んだことがないと思う。おもしろい。 詩「にもの」はむすこがじゃがいものにものになる、と言うから母は私はあなたにとって は何か、という実は厳しい質問を、かーさんはなんだろう、とサラッとむすこにたずねる。 そして姉はあなたにとっては何かという実は厳しい質問を、かさねている。 あたりまえの日常としてこどもとのおしゃべりのおもしろさから書いている けれど家族関係図になっている。そのところは作者は意識しているが、 それが実は厳しい質問だということはあまり意識してないのではないか。 その家庭の信頼が今回はうまく作用しているようだ。 詩「冬虫夏草」は「わたしからのびた草をあなたにひきぬかせた/ 根と共にふたつの乳房と子宮まで/ずるり引き抜かれていく」という体感が 気持ちのよいほど共感できる。「あなた」に「あらかたひっこぬかれて」「とても楽チン」 になってしまえるしたたかさ。言葉化を手に入れられてきた自信がかいま見られる。 また、いくら信頼といっても個としての違和感はある。少しずつ狂気が現れ出る 詩「でかけてきます」が一冊のなかでもっともゾッとする。 信頼と狂気のミックスがこれからの作者の鉱脈か、とおもったりする。 [季刊びーぐる6号] 2月4日 びーぐるが出ました。「アンケート・異境の詩」で参加してます。 「写真、詩への水門」書店で見かけたらお手にとっていただければ幸いです。 たわだようこさんの詩は横浜のパフォーマンスで実際に聞いたもの。 ここからずっと先まで詩の言葉は続いていて、これは冒頭の詩。 たわださんは、名前をひらがなにして詩を発表するようです。 目次 [雪で思い出すクリーム] ゆっくりと溶けて水にかえってゆく 花びらをのせている さっきまでは雪だったこまかな氷のつぶつぶ あの花と雪の色彩からすうーと遠くの記憶へ滑って ジャムとクリームを思い出した。 伊豆のテディベア博物館のティールームでスコーンを頼んだらついてきた クリーム。 冷たさの方へいってもよかったし、白の風景へいってもよかったのだけれど。