99春闘頑張ろう!
いよいよ99春闘が近づいてきた。別にお祭り気分であおりたてるものでもないが、労働組合逆風の時代と言われる中、何が大切なのか、譲ってはいけないものは何なのか、しっかり見極めることが大切だ。
1.私たちをとりまく情勢
と、いきなり全損保の議案風になってしまったが、肩肘はらずに軽く考えたい(ちょっと固めの情勢論は、こちらをどうぞ)。
そもそも、今の世の中、いろんな意味で「危機」が叫ばれ、これを打開する道が求められている。その最たるものが長期不況だ。
鳴り物入りで入閣した堺屋太一長官率いる経済企画庁の発表した「月例経済報告」(12月)では、「景気は低迷状態が長引き、きわめて厳しい状況にある」が「『変化の胎動』も感じられる」としている。このほかにも、最近、景気に関して強気の観測が散見されるようになったが、堺屋長官も自ら「経済指標の悪化は続いており、景気低迷の底打ち宣言をするにはまだ早い」と述べているように、いずれも期待半分と見た方が間違いないだろう。この堺屋氏、期待していたからあえて書くのだが、入閣前の辛口政治批評がうそのように、すっかり官僚のロボットになってしまった感がある。ある意味で青島東京都知事と同様の「とんだ一杯食わせ者」といえるのではなかろうか。月例報告の校正だけだったら別にあんたじゃなくっていいっつうの。そもそも、底打ち感の「根拠は勘」とは何だ。これが一国の大臣が言う言葉かよ。トホホ…。涙が出てきてしまう(T_T)。
マスコミもマスコミだ。「今年は企業がリストラに本腰を入れ(ゲッ、今までは本腰じゃなかったってのかよ)、収益力を回復し…」いかにもリストラが景気を救うような言い方である。
そもそも、ここに大きな間違いがある。今、世間はいずこの企業も「リストラ」「リストラ」と、従業員の首切りも含めた従業員いじめに血道を上げ、「リストラするのはいい会社」という、一種の宗教めいた思想がはびこっている。これが労働者=消費者の購買力を下げ、消費不況をさらに深刻化していることを、新聞(とくにN経新聞)は、まるで見ようとしないかのごとくである。経済は需要側と供給側があって、はじめて成り立つのだが、この国はあたかも供給側だけで成り立っているかのようである。そういえば、「サプライ・サイド・エコノミー」って言葉があったっけ。私は経済学は嫌いだし苦手だし全くわからないが、あれってそういう意味だったのか…。
いずれにしても、一部改善傾向にあるものもあるが、そんなものいつだって多少はあるものであり、大きくははっきり景気低迷を依然示している。そして、根本的な回復の原動力たる消費拡大は、はっきり言って今のままの政策では絶望的である。そもそも失業率が、あの国際的にみてズルズル基準の統計方式でも4.3%である。さらにリストラなんて状況で、消費が拡大したらそれこそ奇跡だ。だいたい、5%なんて、消費に対するペナルティとしか思えないような消費税をかけておいて、「消費が冷え込んでいる」もないだろう。
いい加減、日本中が目を覚ますべきだ。
全体情勢については、以上で充分であろう。あとはその具体的な現われ方を、「これでもか」「これでもか」というほど、反吐が出るほどながめていくだけである。そのあたりは全損保の議案に任せよう。そして金融であるが、これまた反吐が出そうな世界である。「金融の給与は高い」「護送船団」「遅れている」と、いわれ放題の感がある金融だが、いつの間にか国全体のリストラ教の急進派になりつつある。その手口も凄い。不良債権処理を、貸し渋り解消だとかなんとか理由をつけて、結局税金を使ってやろうというわけだが、その際、しっかり「リストラ前提よ」とヒモをつけるのを忘れない。大体、「貸し渋り解消」というなら、不動産投資やらデリバティブやら、博打道に血道を上げていたデカい銀行でなく、まじめに地場企業を育てるべく、地道に資金供給をして来たところに奨励金のような形でも出す方がずっと効果があるだろう。それを見て他の金融経営者も、「やはり金融としてきちんと役割を果たさなければ」と思うこと請け合いである。また、貸し渋り口実論とは別の話になるが、優良行に資金注入する理論づけとして、「危ない金融機関に資金注入すると、そのことがレッテルを貼ることになり金融機関の破綻を招きかねない」という論があるが、それならば、今度は資金注入されなかったところに逆のレッテルを貼ることにならないか。結局、政府は、「ビッグバン」路線のもと、世界博打大会ニッポン代表に充分なタネ銭を持たせたいだけなのである。
金融ビッグバンは、『麻雀放浪記』(故阿佐田哲也の名著)の世界といってよい。すなわち、自分に逆らう奴(競争相手)はつぶす、生き残るためには、相手をおヒキ(子分)にするか、自分がおヒキになって守ってもらうかしかない=合併するかされるか。また、時には同盟して共同戦線を組むこともある。いわゆる「通し」(サイン)をつかったり、相棒にアガらせるためおぜん立てしたりして、利を求めるやり方=業務提携である。そうすることによって、ギャンブルワールドカップの覇者をめざすのである。そこには正義もモラルもない。『麻雀放浪記』第1巻で、代表的な登場人物である「ドサ健」が、麻雀では無敵と言ってよい強さを誇っていた「出目徳」が急死するや、身ぐるみ剥いでしまい、「奴は、死んだ。つまり負けたんだ」「死んだ奴が負けだ。それが、すべてだ」という名セリフを吐いている。国際的な大競争時代、というものの本質を語るのに、象徴的な言葉だと思うのだがどうだろうか。
損保は…ボロボロですなあ。これは、全損保のHPで少しまめに情報供給や主張をして欲しいのだが…。私の私設HPでとやかく書くのは出過ぎたことだと思うからやめておこう。まあ、算式(化学式?)で書くと、
長期不況+外資・他産業からの進出→収保減・収益低下→リストラ・モラル破壊
といったところだろうか。これまた中身を思うと反吐が出る。言うのが遅れたが、このページを読む時はバケツを用意することをお勧めしたい。情勢を語る時は、私も大きなバケツを用意することにしよう。
2.「99春闘」をどんな春闘にしていくか(その1)〜「正義は勝つ」を証明する春闘
大上段に構えた見出しの割に、いささか幼稚なフレーズがつくが、ことわれわれの賃金という問題に限らず。産業・金融・社会のあり方といったものに目をむける時、どうしてもこの言葉が大事なのでは、と思う。
全体情勢でも述べたが、「リストラするのがいい会社」といたような、どう考えても歪んでいるとしか思えないような価値観が蔓延する世の中である。全労連みたいに「世直し春闘」なんて言うつもりはないが、正邪をはっきりさせ、そして、どんなに苦しくても、最後には正義が必ず勝つことを、そろそろ証明すべきではないだろうか。
私は子供の頃、「仮面ライダー」大好き少年だった。作文では、「医者になりたい」なんて優等生っぽいことを書いていたが、本当は正義の味方になりたかった。実際にはクラスの女の子や肥満体のクラスメートにライダーキックを放つという、とんでもない奴だったが、心の底にある、「正義の味方」への憧れは人一倍強かった。労働組合の専従などになったのも、このことが大きな要素だったと今にして思う。労働組合は、とことんまで正義を主張しなければならない、また、会社社会においては、それができる唯一の組織である。そして今のところ全損保は、正義を主張している。
『仮面ライダー』は、TV版では「いつライダーキックを出すか」だけが焦点の、単なるサーカスになってしまったが、石ノ森章太郎の原作は、ショッカーに改造されたという自らの出自に悩み、宿命としてショッカーと闘う本郷猛らの葛藤が生々しく描かれ、かなり「深い」漫画である。そして、悪の象徴たるショッカーは、TV版のように片田舎で年寄りや女子供をいじめるというようなチンケな悪さをするのではなく、経済戦略・マインドコントロールなどを使って人間支配を企む、非常に高度な悪の集団である。TVでいえば『レインボーマン』の「死ね死ね団」みたいなものだ。時には公害反対運動の活動家をコブラ男を使って抹殺したりもする。大変社会的な組織なのである。それもそのはず、ショッカーは、人間支配の道具として、日本政府の計画を横取りした組織であり、ある意味では政府の影の部分、いや、「=政府」とさえ言える集団なのである。
今、政府は「規制緩和」という呪文を唱え、国民すべてを洗脳し、その思想すら支配しようとしているように思えてならない。つまり、現代においては、間違いなく政府がショッカーなのだ。そして国民すべてに「我慢せよ」と忍従を強い、企業が栄えれば日本は栄える、とばかりに歪んだ愛国心を求めている。しかし、国が本当に大事にする大企業=世界企業には、愛国心などかけらもない。さまざまな優遇税制の恩恵を受けながら、「日本は法人税が高いから、産業が外国に逃げる」などと平気でのたまうのがいい証拠である。
企業内の闘争もその縮図である。「我慢」を求め、展望は示さない。はては「我慢することが展望」などとわけのわからないことを言ってお茶を濁す。そんなことでだまされたり、現実を見て「しかたがない」と全てあきらめてしまうのでは、本当にいい社会・産業・企業は望めない。今こそ正義・正論を存分に主張し、「正義は勝つ」ことを証明すべき時期なのではないだろうか。
3.「99春闘」をどんな春闘にしていくか(その2)〜「男の春闘」
なんだか演歌の曲名みたいな見出しである。女性蔑視みたいに取られるむきもあるだろうが、そういうことでもない。男性・女性といった性別の区別とは別に、「男」という概念があるのだと私は思う。漢字で「侠」と書いた方が適当かもしれない。「男らしい女性」(女らしくない、という意味ではなく)もいれば、「男らしさがない(=女々しい)男性」もいるわけである。
では、「男」の条件とは、何であろうか。それは、守るべきもの、捨ててはならぬものを、命に代えても守る、ということである。
私の好きなある作家の小説からいくつか引用してみよう。
兵糧倉が、二つ荒らされた。
それほどの兵糧が入っていたわけではない。まだ収穫前なのだ。
しかし呂布は、自領が荒らされたということが、我慢できなかった。陳宮は様子を見ようと言ったが、倉ではない別のものが荒らされたのだ、と呂布は思った。
「降伏だと。笑わせるな」
「本気だ。降伏して、私とともに天下を目指そう。呂布殿が騎馬隊を率い、私が歩兵を率いる。これで、天下に並ぶものない軍団ができる。頼む。天下平定ののちは、二州の主となってもらう」
「なりません」
劉備は小声で言った。
「呂布が、丁原と董卓という二人の主をどうしたか、思い出してください、曹操殿」
「頼む、呂布殿。私に降伏してくれ」
曹操は、劉備の言うことを聞く気はないようだった。
「私と呂布殿が一体になれば」
「やめろ、曹操。男には、守らなければならないものがあるのだ」
「なんなのだ、それは?」
「誇り」
「おぬしの、誇りとは?」
「敗れざること」
削減されるのは賃金ではない、別のものが削減されるのである。
産業に働くものの誇り。それすら失った男には、生きる資格はない。いや、たたかわずして誇りすらも捨て去るのは、生きながらの死、とすら言えるのではないだろうか。99春闘は「正義は勝つ」ことを証明する春闘であると同時に、「男の春闘」としたい、と私は思っている。