短編集 (1975.6.21)
セカンド・アルバム。ファースト・アルバムの『まごころ』、「モメハン」の収録されている『心が風邪をひいた日』の間にはさまれて今ひとつ地味な印象があるが、個人的には一番好きなアルバムである。何といっても可憐な乙女のイメージが強烈で、「汚れなき太田裕美」を満喫させてくれる。裏返せば、気に入らない人にとってはそこが最大の難点になるのだが。しかし、私は、太田裕美の声の可愛さ、清純さの凝縮度でいえば、このアルバムが間違いなく最高峰だと思う(できばえがファーストアルバムよりはるかにいいという人もいるが、私はさすがにそうまでは思わないが…)。彼女の原点(第1の太田裕美)の完成と位置づけてよいだろう。
かつて『研究委員会』の「アルバム・レビュー」で酷評されたとおり、このアルバムの最大の弱点は、核となる曲がないことである。だから『短編集』なのだという説もあるが…。淡々と、小さなストーリイを連ねた、という感じなのである。しかし、そこが、彼女のか細い歌声と妙にマッチしていて趣がある。古典文学でいえば、「あはれ」の文学だ。全体的に暗い曲調が多いが、私のように根暗の人間にはちょうどいい。このアルバムでの新たな発見は、太田裕美の「ささやき」(もしくは「つぶやき」)の魅力である。この人は、特に高音部が声をつぶす前は魅力の一つだったが、その高音部を張り上げるような歌い方よりも、むしろささやくような抑え気味の歌い方の方がより魅力的なのである。これを「太田裕美のささやきの魅力」と名づけよう。
なんだかベタ誉めであるが、冒頭申したように個人的に一番好きなアルバムなので容赦していただこう。さて、アルバム全体の構成だが、淡々と短編小説(というより散文詩と言った方がふさわしい)を並べたような構成となっているのは前述のとおりだが、LPのA面(CDでは6曲目まで)が恋の芽生えから盛り上がる時期(陳腐な表現ですいません)を、B面が恋の揺らぎから失恋のプロセスを歌った曲から成っており、1曲目から12曲目まで、1つのストーリーを作ることができるようになっている。『短編集』でありながら、すべての短編をつなげてあたかも1つの物語のように読むこともできるのである。私の読書歴の範囲でいえば、井上靖の『あすなろ物語』あたりのような構造だ。このあたり、今思えばじつに凝っている構成で秀逸である。そういえば曲のトーンも、短調(本当にそうかどうかわかるほど私には音感がないが、あえてこう表現する)で一貫しており、ともすると「暗い」印象になりがちで、本当に売ろうという気があるのか考えるとすこぶる疑問だが、スタッフの、「太田裕美はこの路線で行くんだ」という強い意気込みが伝わってくるようで、この構成の凝り方といい、当時のスタッフにはなかなか骨があったのだと感心してしまう。
1曲目の「白い封筒」とラストの「青い封筒」が全く同旋律であり、対になっている。そして、この、あまりに地味で、通常プロローグとエピローグ的な存在にしか見られないこの2曲が、実はこのアルバムのポイントなのである。「白」では、恋に胸ときめかせる(30代の男にはあまりに恥ずかしい言葉だったので何回も入力ミスしてしまった)乙女の気持ちが彼女の可愛い声で気負いなく歌われ、そして「青」では、失恋の悲しみが悲しげに歌われる。とくに後者では、太田裕美は完全に泣いている。彼女の著書『背中あわせのランデブー』によると、「レモン・ティー」では涙を流しながら歌っていたというが、このアルバムでは他にも泣きながら歌った曲が多いのではないかと思われる。とりわけこの「青い封筒」「紙ひこうき」などは怪しい。これらの曲を聴いていつも思うのは、「こんな可愛い声をしていたら、どんなブスでも、絶対に捨てられないだろうな」ということである。かつては、太田裕美が歌う失恋の歌を聴くたびに、「こんな可愛い娘をふるなんて、どんな男なんだ」と勝手に想像して本気で怒りを覚えたものである。モメハン以降しか知らない方、『短編集』を聴いて、「こんなに可愛い娘をふる男が世の中にいるのか!」という怒りを一度味わってみませんか?
このアルバムに限り、全曲を寸評する。
まず、「白い封筒」。清純な乙女の、恋の芽生えの心情が、清らかな声で歌い上げられている。「好きですと、ひとこと書けたならいいのに」「書けないままに文字を並べてます」…なんという詩であろう。そこいらの女性が言ったら、ぶっとばしたくなることうけあいである。彼女の声でないと成立しないフレーズというものは多々あるが、これはその最たる例であろう。うぐいす商会氏からは「少女趣味の極み」とばかりに批判されているが、まあこれは好みの問題だと思う。私は少女趣味の太田裕美音楽もテクノポップもどっちも好きですから…。
「太陽がいっぱい」。若き日の彼女がアラン・ドロンのファンであったことは有名であるが、曲名に彼の主演映画のタイトルを持ってくるとはなんともお茶目だ。曲も、このアルバム中最も明るいものになっている。全曲で芽生えた恋。今の幸せをしっかり放さない、という少女の心理を見事に表現している。
「やさしい翼」。殻に閉じこもり泣いてばかりいた少女が幸せを手に入れ、唯一の心の友であった小鳥を、これから「あの人といつまでも一緒」だから、逃がしてあげる…考えてみればものすごい勝手な話である(彼氏ができたから用済みだというのか!)が、なんとなく納得してしまうのは、やはり彼女のキャラクターのゆえんであろう。どことなくけだるそうにきこえてしまうのは、著書『背中…』にあるとおり、レコーディング時に眠かったからとのことである。
「ねぇ…!」。曲名からして、甘えるような詞であることは想像がつく。このアルバムを初めて聴く時、一番期待した曲である。彼女の自作の曲であるが、この時期はなんとも素朴な感じで、カワイコチャン歌手が曲作りにも挑戦してみた、という雰囲気がある。もちろん、本当のカワイコチャン歌手の域は大きく超えているのだが、後年の彼女の自作曲と比べるとテクニックを駆使しているというわけでなく、何となく拙い印象を与えるということである。いつ聴いても、この人はなんてかわいい声をしているんだ、と思ってしまう。
「たんぽぽ」。シングル2枚目。シングル曲の中では、最高の曲はやはり「雨だれ」と信じているが、個人的に一番好きなのはこの曲である。私はモメハンからのファンだが、「ラジオジャック」の太田裕美特集でこの曲を聴いて、彼女のファンになることが確定した。シングルで最も根暗な曲かもしれないが、このわびさびがやはり彼女の原点なのである。たまたま電話が話し中だっただけで「相手は誰?」と不安になってしまうなど、考えようによっては怖いものがあるが、愛情を見失いそうになる不安心理(倦怠期でもあったという設定か?)が、「あはれ」を感じさせる。「後ろから目隠しされた公園」で、「振り向いても誰もいない。風の音」など、あまりにせつなく、寒さすら感じる。しかし、彼女のこういう詞って、なんとも心を揺さぶるのである。最後の「そんな小さな花のようにそばにおいてください」が実にけなげで、そういわれてしまうととても捨てる気になる男がいるとは思えないほどである。
「回転木馬」。後の「最後の一葉」といい、当時松本隆は、O・ヘンリに凝っていたのだろうか。曲としては、えらく長いイントロと、オケの壮大さが印象的である。歌も当然悪くないのだが、この曲を聞くといつも、「黒い馬で逃げるあなた、白い馬で追うのよ」の詞のところで、競馬を連想してしまう。このLP発売の数年後、私が高2か3の頃だが、中央競馬にメジロイーグルというめちゃ強い逃げ馬と、シービークロスというこれまた信じられないくらい強い追い込み馬がいた。前者は栗毛か鹿毛(つまり茶色っぽい=黒っぽい)、後者は芦毛(つまり白っぽい)であった。メジロイーグルは数々のレースでダービー馬サクラショウリに後塵を浴びせ続けたし、シービークロスは、「白い稲妻」の異名をとり、殿一気の追い込みで度肝を抜かれたものである。天皇賞でこの2頭の対決が見られるはずだったが、シービーの回避で実現せず、イーグルも凡走してこの時の天皇賞馬は太田裕美の大好きな長嶋茂雄にちなんだ馬名のスリージャイアンツであったのは何かの縁であろうか(ぜんぜん曲の寸評になっていなくてすいません)。
B面に入り、ブレス聞こえまくりの「すれちがい」。このあたりからだんだん愛に影がさしてくる。もっとも、A面後半ぐらいから、その兆しは感じられるようになっており、恋はその絶頂期から既に不安が影を落とす、というじつに巧妙な演出になっている。「ブレス聞こえまくり」とはいささか失礼な言い方だが、熱唱のあまり、「届かない、届かない、届かない」のあたり、あるいはその後から彼女のブレスがすべて音声に入っているのである。臨場感が感じられるという側面もあり、また、一生懸命さが感じられるという見方もできるが、聴く時の気分によっては、なんだか苦しそうで気になってしょうがない時もある。
「妹」。一つ下の妹さんが実際にいることは彼女の著書にも書いてある。その中で「実際の姉妹と正反対」などというコメントがある。しかしよく聴くと、たった1歳しか違わないのに、ずいぶん偉そうなことをいう姉である。2番の「いつかあなたも悲しみにきっと泣く日がくるでしょう」とか、1・2番共通の「早く、早く、駈けて行きなさい」など、数倍の人生経験を積んできたような言い方である。しかし、彼女の大人っぽさ(可愛さが彼女の基本属性であるが、時としてびっくりするくらいの大人っぽさを感じさせることがあるのが彼女の不思議の一つである)が、歌に説得力を持たせている。
「レモンティー」。名曲である。著書『背中…』によると松本隆が「ぼくのために心を込めて」と注文をつけ、涙を流しながら歌ったということであるが、さすがに気合いが入っている。気持ちを持っていけるところがさすがプロだとうならざるを得ない。詞は、「傷ついた心」を癒してもらえなかったからと言って、「崩れていく角砂糖」を「僕たちのようだ」などと言う、男の身勝手さが気になるが、それでもひたすら自分の態度を反省し、「笑い方を忘れたのね」と男を気遣う女の優しさが泣かせる。うぐいす商会氏は、太田裕美ファンは彼女をいじめることを想像して喜びを感じるようなことを言っていたが、私は違うと思う。わがまま放題甘えて、女を困らせたい心理が、彼女の歌に惹かれる大きな要因なのではないだろうか。つまり、Hiromistはみんな、甘えん坊なのである。
「ピアニシモ・フォルテ」。10・29ライブの感想でも書いたが、43歳の彼女が歌ってもじつに感動的だった。そもそも、名曲「レモンティー」の陰に隠れ、いまひとつ地味な印象だったような気がする。生で聴くまで、この曲がこんなに名曲だったことに長年気づかなかった。それだけ『短編集』が名曲ぞろいである証左であると、私は思う。別れのシーンを歌った曲であるわりには、淡々と歌っているが、それがかえってしみじみとしたものを伝えてくる。最後に「雨上がりの橋の上で私は泣いたの」「愛はいつもピアニシモ、悲しみはフォルテ」と、さりげなく、恋を失った悲しみを歌っているのが、聴く者の寂寥感をかきたてる。
「紙ひこうき」。とにかく悲しみバージョンフル回転である。「似顔絵も写真もみんな燃やしたの」「思い出だけが一筋の煙になってこの胸にしみる」…ともすると滅入ってきそうな詞であるが、これはこれで当時の彼女の路線の真骨頂である。これでもかこれでもか、と、聴く者が泣くまでたたみかけてくるような曲である。2番のあたりでは、彼女は実際に泣いているのではないかとも思われる。
「青い封筒」。封筒の色は、涙を象徴しているのだろう。「インクだと思い出がにじむ」「鉛筆ならいつかうすれて消えそう」など、全体的に後ろ向きな詞が続く。失恋した乙女の心理を描く詞として、最高峰の曲である。実際にこういう女性がいるのかどうか疑問もあるが、少なくとも、男が抱く、「女とはこうあるべきものだ」という一つの理想像(ユングのいう「アニマ」の概念に近い)を見事に描いている。自分が若い頃は、なんとなく太田裕美のファンを公言することが気恥ずかしかったものであるが、こういう、自分の女性観を見られるようで、それが恥ずかしかったのだと思う。
最後にジャケットであるが、うぐいす氏の言うように、やはりダサい感じは否めない。しかし、それも含めて、当時の彼女の魅力が形成されているのではないだろうか。もっと細かい指摘をすれば、表側の、ピアノに腰掛けている(音楽の道を歩む者たる身で、なんてことをするんだ!)写真であるが、表情が固い。まだ芸能界慣れしていなかったのだろうか。それが妙に初々しさを感じさせる。