高崎隆之介が横浜(ハマ)に戻ってきた。
四年前の不可解な事件で刑事の職を追われた梶礼二郎。
その事件の鍵を握るのが高崎だ。
高崎を追う梶……。
警察と覚醒剤をめぐっての暴力団同士の抗争が複雑に絡みあう。
限りない硝煙と血の匂いの中、梶の復讐が始まった。
言うまでもなく、「北方ハードボイルド」の出世作である。
この作品は、北方HBの原点でありながら、ある意味で北方HB離れしている。というか、第3作の『眠りなき夜』以降とそれ以前では、なんとなく一線を画しているような気がするのだ。『逃れの街』は、恥ずかしい話であるが、読むたびに泣いてしまうので、あまり冷静に分析できないが、本作については、他と際立った個性を感じる。
まず、文体が違う。いわゆる北方格闘シーンの、独特の切れのいい短い文体が見られないのだ。見られないといっては言い過ぎだが、1単語で1文などといった、極端なまでの短文がない。これは後の北方HBの大きな特徴となるだけに、この異質さはひときわ目立つ。緊迫感あふれる格闘もしくは銃撃シーンが、北方HBにしてはやけに説明的なのだ。
また、舞台がいかにもという感じの横浜(ハマ)である。これだけHBのパターンにはまった設定も北方氏としては珍しい。これは、後に氏自ら初のオリジナル・エッセイ『第二誕生日』の中で(以下、ここからの引用は多用することになると思うが、煩雑なのでいちいちその旨はふれない)、「材料は揃っている。揃いすぎだ。それはパターンにつながる。そういう批判が出ることは承知の上で」あえて舞台設定を選んだと述べている。要は、あえてHBのパターンにのっとって1作書いてみたということなのだ。
さて、この物語でもっとも印象的なのは、ラストの行軍である。「行軍」と書いたが、まさしく行軍である。HBでありながら、さながら「いくさもの」のような展開になるのである。追手から闘争する主人公たち。追撃を食い止めるポイントの選定など、これはまさしく『孫子』「地形篇」だ。そしてラスト。思わぬ波乱が待っている。実戦心理の綾を巧みに描いたシーンで、後に時代ものにも進出する北方氏の素地を物語るような名場面だと私は思う。これだけだと何のことだかわからない、という人は、ぜひ『北方三国志』のコーナーを見てほしい。
逃がれの街(1982年4月・集英社)
わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあな
たがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこ
に逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血
の復讐をする者からのがれる場所となる。
ヨシュア記
いきなり扉にこんな文章が出てきて、びっくりしたことを覚えている。純文学出身の北方謙三、面目躍如というところである。
「愛する女・牧子のために暴力団員二人を殺した。生々しい感触が今も幸二の掌に残っている。自分の行為に対して言い訳などなかった。終わってしまったことからは何もはじまらない……。警察と暴力団の双方が追ってくる。逃げるだけだ。公園で知り合った幼いヒロシを唯一の友に、幸二は今、“逃がれの町”を求めて雪の軽井沢へ……。」というのが裏表紙の紹介文章である。これだけ読むと、恋愛小説的な要素がありそうな気がするが、実は「牧子」という女性は、序盤から中盤までの、主人公幸二を否応なく非日常の世界に導くだけの導入役に過ぎないのである。少なくとも幸二にとって、牧子は命を懸けるほどの対象ではなく、最後まで彼女に未練を持つ、ということからは程遠い。文庫版の解説に「ストーリー主義に堕していない」ことを魅力とするくだりがあるが、けだし名言であろう。
この小説は、当然のことながら、悲劇的結末に終わる。軽井沢でヒロシとみつけた、幸福な生活は、長く続かない宿命をはじめから持っていた。主人公は、3人を殺し、警察と暴力団の双方に追われるといういわば超常的な状態でありながら、少年に対して親のような気持ち(責任感まで)を抱くに至る。日常を離れて人間性を取り戻したかのようである。しかし、所詮住処は不法侵入した他人の別荘、いずれ警察か暴力団の追及の手は伸びる――。主人公の最期の直前、警察に別荘を発見されてからのシーンは、いつ読んでも涙を誘う。そんな境遇になったことがないのに、妙に主人公の気持ちがわかるのである。少年の目にいらつき、ヒロシを盾にするかのように窓に立たせる。こうすれば俺が助かる、という言葉を信じてひたむきに従うヒロシの姿、そしてその後の、「この眼は、俺だけを見ている」…。このあたりの描写は、圧巻というほかない。『逃がれの街』は好きなのだが、どうしても人前で読めないのは、ここが原因である。
全く作品と関わりがない話だが、実は私が持っている文庫本は、乱丁品である。主人公とヒロシの出会いから売血のシーンまでがページが逆さになっているのだ。古本屋で入手したのだが、珍しい、貴重な乱丁と思ってずっとこの本を取っておいている。
ところで、水井の射殺直後のシーンの「少年とは思えない眼の光」を放つヒロシの成長後を見てみたい、と思ったのは、私だけだろうか…。
眠りなき夜(1982年10月・集英社)
いよいよ本格的HBのはじまり、といった感のある傑作である。
――弁護士・谷の同僚、戸部が失踪、つづいて彼と関わりのあった小山民子が殺された。彼女が書き残したメモを手がかりに、谷は山形県S市に飛んだ。事件の深奥を探る中、早速、三人組に襲われる。黒幕とみられる大物政治家・室井などの名が浮かぶが、事件の謎は深まるばかり。そして戸部の惨殺体発見……。民子との間に何があったのか? 室井との関係は?
友の死を追って、谷は深い闇を解明すべく、熱い怒りを雪の街に爆発させる。
裏表紙にある内容紹介である。文句のつけようがない。たしか、別のところにあった紹介では、この後に「老犬トレーのメロディに乗って熱い怒りの神話をつくる」というくだりがあったかと思う。稀代の名脇役・老いぼれ犬こと高樹警部のデビュー作でもある。
次の『檻』を最高傑作とするむきもあるが、たしかに完成度においてはずば抜けたものを持っているものの、エンタテインメント的面白さ、という点では、私は『眠りなき夜』を第1位に推したい。まるで映画をみているような世界が生々しく目の前に展開されるのだ。
文庫の解説にもあるが、武闘シーンでの最強の敵・中原の怖さをさりげなく示すシーンが圧巻である。尾行の気配を感じ、いらつく主人公。そして、その気配が消えるた直後、すれ違った人に声をかけられ、冷や汗が噴き出す。「ベージュ色のバーバリのコートが、鋭利な刃物で横に一直線に切り裂かれている」この一文に敵の凄みが凝縮されている。
最後の中原との格闘シーンは、迫力満点である。いつも思うのだが、北方HBをアクション映画にしたら、ものすごく面白いだろうが、実際、映像化は至難であろう。こんなシーン、頭では思い浮かべられるが、文字を読んで浮かぶイメージどおりの迫力を映像化することは事実上不可能なように思える。
老いぼれ犬も、いい味をだしている。クライマックスの直前、仕掛けていた罠が駄目になり、本作のヒロイン・三木順子が殺された現場で、主人公の求めに応じて車のキーを渡す(警察車のキーを民間人に貸すかっての!)。主人公と見つめ合いながら、かすかな覇気を取り戻すところなど、まさに老いぼれ犬の真骨頂である。
また、トルコ(今では完全に死語!)の女性・妙子の、掌の黒子をめぐって「もっと内側にあるといいんだって。握ると隠れちゃうところにね。幸せをつかむって話だわ」なんかも、なんとも言えない味があるセリフである。間接的に不幸な境遇を現わしている。その後のやりとりも心にしみてくるものがある。
他にも、HBならではの会話の味も随所に出てくる。とぼけたり、きざだったり、こういう会話をしてみたいと思うが、凡人にはなかなか出てこないセリフばかりである。実際、いかに北方謙三といえども、長時間考えて、これらのセリフを書いているのではないだろうか。
檻(1983年・集英社)
北方HBの一応の完成、と位置づけられる作品である。
やくざの世界から足を洗って、今は小さ
なスーパーを経営している滝野和也。そ
のスーパーの買収工作をめぐるいざこざ
から、滝野の野性の血が再び噴き出す。
結局は“檻”の中にとどまれず、修羅場
に戻ってゆく男の滅びの美学を、鮮烈な
叙情で謳いあげた北方ハードボイルドの
最高傑作!
これが裏表紙の紹介である。まさにその通りであるが、私には、主人公の「男の美学」以上に、高樹警部の怖さが非常に印象に残った一作である。前頁でも書いたが、およそ想像もできないような狙いを持って滝野を泳がせ、自分の描いたシナリオどおりに行動するよう追い込んでいく。
「軽蔑するか、私を?」
「なぜですか?」
「わかってるはずだ、おまえには」
若い刑事とのやりとりだが、はじめて読んだ時には高樹の意図が読めず、事が起こってからようやくわかって愕然としたものである。
もちろん主人公滝野和也も迫力満点である。足を洗った、というが、堅気であるがゆえにかえって怖い。一見何の変哲もないスーパーのおやじがこんな言動をしているのを見たら、怖くてしょうがないだろう。ハイライトは、非日常のセリフだが、「どこをどうすりゃ殺せるか、知ってるだけじゃない。やったこともあるんだぜ」だろう。また、アイテムの“海軍士官の短剣”が、彼のキャラクターを見事に演出する。この短剣を砥ぐシーンは、実にいきいきとしたイメージを浮かばせる。高樹警部の必殺技・“手錠アタック”に武器を落とさなかったのは、この滝野だけだったのではないだろうか? 最後の最後まで彼は負けない。村沢に拳銃を使わせ、命を落とすのだが、そのシーンでも彼は完全に勝っている。死ぬまで負けなかった、という意味で、北方HB最強のヒーローといえるかも知れない。
なお、この作品では、高樹警部の視点からの描写も出てくる。「老いぼれ犬」の私生活の一面もうかがうことができて、なかなかのサービスである。